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昔日のローマ #5

 イタリア半島にはいくつかの川がありますが、その中でもアドリア海の奥にはポー川、少し南下してルビコン川、ティレニア海側にはアルノ川、南下してテヴェレ川が有名です。

 いまでは、北イタリアといえばベニス、ミラノなどの地域を指し、中部イタリアはフィレンツェ、ローマを指し、南イタリアはナポリから南という感じです。

 しかし現在とは違って、歴史の中では年代によっての都市や地方の呼び名が違い、それぞれの文化も違うということになります。昔をしのぶつもりなら、アペニン山脈や川などの地理を思い浮かべながら、それぞれの地方にどんな人々がどのようにして暮らしたかを想像するしかないのでしょう。

【エトルリア人とその文化】

 紀元前9世紀にはイタリア中部では初期鉄器文化がありました。この地方はエトルリアと呼ばれ、現在のトスカーナ州のフレンツェやウンブリア州のペルージアなどはエトルリア民族の都市といえるそうです。

 それらの都市は海に直接面しているわけではないのですが、地中海を船で行き来するギリシア人との交流があったということです。細長い国土の真ん中を山脈が走り、その北側と南側に海があるというのは、日本の国土を思い出せば簡単です。しかし、日本よりは小さなイタリアですから、山では鉱山があり、そして海へもそう何百キロとは離れていなかったので、外国との交流もできたのではないでしょうか。

 ギリシャからもたらされた青銅の技術、そして、美術・工芸品などの質の良いものがギリシャ本土から直接もたらされていたようです。

 紀元前8世紀から前6世紀までは、エトルリアの勢力はたいへん強く、現在のベネチア近くのポー川から南を北はエトルリア、南はギリシアとしていたそうです。そのころのギリシアはイタリア半島への移住者が多く、ギリシアの植民地もありました。

 紀元前3000年ごろを見ても、エジプトやオリエントの国々は古くから栄えていましたので、その文化が地中海を伝わってエトルリアに影響を与えたことでしょう。鉱業、農業、食物の保存方法、建築や土木技術、生産物の輸出入、それらの交易を通して文化的なものが入ってきたのではないでしょうか。

 西洋美術史には、エトルリア美術という分野もあります。

【ギリシア人とその文化】

 紀元前8世紀のギリシアは都市国家の時代でした。経済は発達し、人口も増加し、それらの人々が国外に出て生きていく時代へと変わっていきました。ギリシア人は海洋民族でも有名で、外国に植民地を求めて出て行きました。それは黒海からスペインまで幅広く、中でもとなりのイタリア半島はギリシャの植民地がたくさんありました。

 イタリア半島をブーツに例えると、かかとのプリンディシ、土踏まずのターラント、足の裏の指の付け根のクロトーネ、つま先の先にはボールのようなシチリア島があり、つま先と接するようにメッシーナ、カターニア、シラクサ、アグリジェント、パレルモと時計回りに島を一周します。特にパレルモは北アフリカに近く、カルタゴからも近いところなので、パレルモはカルタゴの植民地でした。引き続き、足の甲からむこうずねに向かってナポリ、クーマ、カプアなどがギリシアの植民地でした。

 これらの植民地は、ギリシアの高い文明や生活技術、商品の生産などを行い、短期間に発展していったそうです。貿易品を持ち、海上を交通手段として商売は行われていたようですが、発展していたエトルリアとギリシャ植民地の間に挟まれたローマは農業と牧畜ぐらいしかない状態だったようです。



 それにしても、後から発達した国が栄えるという例はいくらでもあります。現在の大国アメリカでさえも、15世紀の大航海時代に発見されてから繁栄したものです。ローマが建国されてからどのように発展していったかがたいへん楽しみですね。

 

 
by arrive_at | 2007-10-20 01:04 | イタリア

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