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昔日のローマ #13

 紀元前753年以来244年間も続いたローマ王制時代は終わり、その間に現れた七人の王についても書き終わりましたが、それでも、このメモの元になる「ローマ人の物語Ⅰ」は第1巻にして、まだ半分もいっていません。

 そんな大掛かりな時代メモを書き出したのが間違いかもしれませんが、とにかく、端折ってでも進めていきたいと思います。


 紀元前509年、王制打倒を果たしたのは、ルキウス・ユニウス・ブルータスでした。第1回目の執政官はブルータスとコラティスを選出し、今後は王位は誰も就かず、1年ごとに市民集会で執政官を選ぶというきまりにしました。

 ブルータスはあだ名で、母方の叔父は王タルクィニウスで、姓もブルータスではなかったのです。先王の時代を「阿呆」(ブルータス)と軽蔑されながら耐えていたのが、先見と実行の能力を持ち、改革の主導者となりました。

 元老院の強化策として、ロムルスの時代は100人、五代王タルクィニスの時代は200人、そして、ブルータスの時代は300人に増やしました。

 その元老院での演説のはじめの呼び掛けの言葉は、「パートレス・コンスクリプティ」でした。その訳は「父たちよ、新たに加わった者たちよ」ということで、旧勢力と新参者を表わしています。

 そして、王制から共和政への移行はなかなかたいへんで、変革があり、不満が出たり、いろいろなことが起こりました。


【ブルータス】
 
 ローマ共和政により、元老院に親が死ぬまで入れない若者反逆を企てました。そして、追放されたタルクィニスを呼び戻し、王政復古を企てたのですが密告されます。逮捕された中には、執政官のブルータスの息子二人もいました。

 国家反逆罪の罪人として、ブルータスは家長として息子二人を処刑しました。ブルータスはその処刑が終わるまで同席したのですが、その潔さへの賞賛とは反対に、もう一人の執政官コラティスは疑いがあると市民に見られたのか、執政官を辞退し、家族ともども隣国に亡命しました。自主的に亡命したものには罪は問わないという決まりがありました。 

 その後の執政官にはヴァレリウスが就きました。

 七代目の先王タルクィニスは王位復帰をあきらめず、諸都市に応援を求め、戦いがはじまります。

 タルクィニスの長男アルンテスとブルータスが一騎打ちをするのですが、お互いにいとこ同士です。しかし、アルンテスには追放された怒りがあり、ブルータスには公人と私人の狭間を埋め切れなかった者の絶望がありました。
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by arrive_at | 2007-11-02 21:24 | イタリア  

昔日のローマ #12 七代目 タルクィニス

 第六代王セルヴィウスは紀元前579年から前534年まででした。このセルヴィウスの統治は素晴らしく、市民にはたいへん助かったのですが、その次の代はもうムチャクチャというか、この辺が歴史の面白いところですね。



【最後の王「尊大なタルクィニス」】

 五代王タルクィニスの娘は養子のセルヴィウスと結婚したのですが、その間に生まれた二人の娘がいます。一人は勝ち気で、一人はおとなしい性格でした。

 五代王タルクィニスにも実子の二人の息子がいました。一人は気の強い野心家で、一人は穏健な性格だったそうです。

 先王セルヴィウスは性格の違うもの同士を結婚させましたが、性格の中和どころか気の強いものが優しいものを虐げるという、とんでもない結婚だったようです。

 気の強い王女トゥーリアと義弟のタルクィニウスはお互いの結婚相手がなぜか急死し、たぶん、とんでもないことに野心の為に殺したのかもしれませんが、そして、この野心家同士が結婚しました。

 まだ先王セルヴィウスが生きていた頃だったのですが、さすがに先王も気落ちしていたようです。

 気の強い王女トゥーリアにたきつけられた野心家のタルクィニウスは、ローマに住むエトルリア人を味方につけ、王セルヴィウスを元老院入口前の階段から投げ落としました。屈辱にさいなまれながら王セルヴィウスは宮殿に戻ると、タルクィニウスの刺客が剣を刺し、最後には父親のタルクィニウスに娘トゥーリアの乗った馬車が襲いかかりました。本当に親を殺したのです。

 タルクィニウスは王になり、トゥーリアは王妃になりました。すげー!

 もっとすごいのですが、先王派の元老院議員を殺し、市民集会や元老院の選出無しに王についたのです。

 さらにこの後に続くスキャンダルは有名になり、今年(2007年)の夏、東京都美術館で開催されたパルマ展の中にもこの話を題材にした「ルクレツィアの死」を描いた絵は一枚ではありませんでした。

《スキャンダル》

 王の息子セクトゥスは、親族コラヌスの妻ルクレツィアに横恋慕し、襲う。
 その夜のうちにルクレツィアはローマの父と、アルディアの戦場の夫の下に変事を知らせ、信頼できる者を連れてすぐ帰るようにと召使を出す。

 父ルクレティウスはヴァレリウスを、夫コラティスはユニウス・ブルータスを連れて帰る。

 四人の前で妻ルクレツィアは復讐を誓わせて短剣で自害する。

 ブルータスは遺体をフォロ・ロマーノに運び、蛮行の犠牲者を出してはならないと演説をする。
そして、王と王の一家全員をローマから追放することを市民に提案した。

 ローマ人の不満は爆発し、ブルータスの市民兵結集の呼びかけに応じた。

 王タルクィニウスは戦場のアルディアからローマに帰るが、ローマの城門は閉ざされていた。

 王は自分に従う兵とエトルリアのカエレを頼って去った。王妃トゥーリアはローマを逃げ出す。

 三人息子のうち二人は亡命し、父に同行する。

 犯人の息子は別の町に逃げ出したが、以前に侮辱した者の手で殺された。



 25年間の治世もこのようにして終わりました。


 このローマの建国以来の7人の王の時代も最後となり、244年間のローマ王制時代が終わったといわれます。

 この次は、ローマ共和政時代に入っていきます。


 
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by arrive_at | 2007-11-02 18:57 | イタリア  

昔日のローマ #11 セルヴィウス・トゥリウス

 第五代王タルクィニスは紀元前615年から579年でした。その跡を継ぐセルヴィウス・トゥリウスは先王の養子でした。そして実子を王にはせず、この優秀なセルヴィウスが高い評価を受けていた先王の後を継いだのは、ローマにとっても良かったのではないのでしょうか。

 血筋よりも能力を評価したというのは政治ではたいへん重要なことですね。

【六代目の王セルヴィウス・トゥリウス】

 先王タルクィニスの後を継ぎ、「セルヴィウスの城壁」といわれるローマ全体を守る城壁が作られました。7つの丘を囲み、外からの攻撃に耐えられるということです。

 また、アヴェンティーノの丘に狩りの女神ディアナの神殿を建て、その立派さに他者もローマに入り詣でることができました。

 軍制の改革としては、市民は軍役を努めることで税金を払うということの代わりにしました。そして、投票権を与えます。

 干拓地だったところに、軍神マルスから取った「マルスの広場」(カンプス・マルティウス)を作り、軍団の集結地と市民の投票場としました。

 軍制=税制=選挙制

 戦力を知る為に人口調査をしました。ローマでは100人隊という最小単位で一票とし、小選挙区制としました。ギリシアのアテネは一人一票だったのです。

 また、16歳未満の未成年男子、軍務を終えた60歳以上の老齢者、女、奴隷、子供しか財産がない者はプロレターリという無産者としました。

 セルヴィウスは戦法を確立しました。ローマ軍は前衛・本隊・後衛に分かれ、前衛は敵とぶつかって戦線を乱し、本営は主力の重装歩兵は勝負をし、いざとなれば3番手の後衛が駆けつけるという戦法です。騎兵は機動部隊として活躍しました。

 そうして、ローマ軍団の合理的な戦法によって周辺の部族にも勝ち、44年間の治世も終わりました。
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by arrive_at | 2007-11-02 18:10 | イタリア  

昔日のローマ #10 タルクィニス・プリスコ

 第四代王マルティウス・アンスコは紀元前641年から前」616年まで治めていました。その後を継いだのが良くも悪くもタルクィニスで、その後の家系の悲劇も含めると、歴史としては面白いものがあります。というのは、王とはいえ人間ですから、いい人もいれば悪い人もいるということでしょうか。

 自分のことを振り返ってみても、同じ血筋なのにこうも考え方や性格が違う者がいるのかと、悲しさと共に笑いさえこみ上げるのです。

【五代目の王タルクィニス・プリスコ】

 タルクィニスは裕福なエトルリア人であったようで、たくさんの家財道具と使用人たちを引き連れて、ローマにやってきました。

 タルクィニスの父はギリシアのコリントからエトルリアに亡命し、母はエトルリアの位の高い家の出身です。

 両親から相当な財産を受け継いだタルクィニスは、王アンスコの遺言執行人に指名されます。そして、その後王に自ら立候補します。

 ローマの市民の生活水準も向上し、町も大規模な開発がなされます。

 丘と丘の間の湿地帯には地下水道、干拓事業で平地になり市場になります。地下水道をふさぐ石の舗装がなされたり、公共の建造物もできます。

 フォールーム・ロマーノム、フォロ・ロマーノが誕生します。 大競技場(チルクス・マクシムス)、 カピトリーノの丘に神殿の建設、オスティアなどテヴェレ川の河口に港を持ち、民族別の丘も交流がなされました。開発事業はローマ軍兵士の仕事でした。

 干拓、地下水道、道路舗装、神殿などの技術はエトルリア人の技士から伝わったようです。農耕民族から技術者へと変わり、土木事業の資材はエトルリアから運ばれたようです。

 王タルクィニスは奴隷の子を養子にし、王タルクィニスが暗殺されるや、妻は実子よりもこの子供セルヴィスを娘の夫にし、王に即位させました。

 利発で勇気ある子だと、タルクィニスには先見の明がありました。そして、37年間の治世でした。
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by arrive_at | 2007-11-02 17:44 | イタリア  

昔日のローマ #9 アンコス・マルティウス

 第三代王トゥリウスは紀元前673年から前641年になります。そして、次の王が市民集会と元老院で選出されました。

【四代目の王アンコス・マルティウス】

 アンコス・マルティウスは二代目の王ヌマの娘の子供になります。サビーニ族出身でローマで生まれ育ちました。

 アンコスの時代はまだまだ戦闘が続き、移住者などで人口が増えたローマでも、その周辺のラテン族やサビーニ族などの近隣部族との戦いは続きました。そして、負けた部族の都市は破壊され、その部族はローマに強制移住をさせられました。

 ローマ人同化政策というのは奴隷にはなりません。同じローマ人の市民権を与えて人口を増やしていくのです。そうしてローマという都市がだんだんと大きくなっていったようです。

 ローマの7つの丘はそれぞれの移住者の住むところになりました。

パラティーノ・・・ラテン系ローマ人

クィリナーレ・・・サビーニ系ローマ人

チェリオ・・・アルバ人

アヴェンティーノ・・・新しい移住者

カピトリーノ・・・神々の住まい

ヴィミナーレ、エスクィリーノ・・・上部平地は狭く、海抜も低い


 アンコス王はテヴェレ川にはじめて橋をかけました。西岸のジャンニコロを要塞化し、7つの丘を結んだのです。

 また、テヴェレ川下流のオスティアを征服し、塩田事業を手に入れました。農業と牧畜業に加え、産業が増えたようです。

 アンコス・マルティウスの治世は25年間でした。
 
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by arrive_at | 2007-11-02 17:05 | イタリア  

昔日のローマ #8 トゥリウス・オスティリウス

 「ローマ人の物語」という本は全部で15巻あるらしいのです。それを1冊ずつこつこつと読み進めるには何週間もかかります。

 さらに、それを思い出しては整理しながら書き留めるのは時間のかかることです。古代ローマの歴史を知りたければ、さっさと本を読み進めることが近道でしょう。私のように、メモ代わりに整理していると全然歴史の話が進みませんから。

 建国の王ロムルスが紀元前753年にローマを作り、39年間の統治でした。二代目のヌマは前715年から43年間の統治でした。そして、3代目へと続きます。

【三代目の王トゥリウス・オスティリウス】

 トゥリウスはロムルスと同じラテン系のローマ人で、攻撃型の男のようでした。ローマの祖先の地でもあるアルバを攻め込みました。

 ローマはまだ80年の歴史ですが、アルバは400年の歴史を持つ独立国です。近くにはエトルリアという大きな都市もあり、小さなローマの攻撃がアルバの運命を変えました。

 ローマが大きくなるためにもアルバを攻略し、アルバの都市は破壊されましたが、住民はローマへの移住を強制され、ローマ市民になりました。

 ローマ市民ということは、市民の義務として軍務を勤めることにありますから、ローマの戦力も増強されました。

 チェリオの丘に移住し、クインティリウス、セルヴィウス、ユリウスというアルバの有力家はローマ貴族として元老院になりました。後のユリウス・カエサルは子孫になります。

 トゥリウスの軍事力は大きくなりましたが、そのトゥリウスは雷に打たれて死んだそうです。32年間の統治でした。
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by arrive_at | 2007-11-02 16:40 | イタリア