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昔日のローマ #7 ヌマ

 紀元前753年から前715年の39年間に、ロムルスはローマの王としてその国を治めました。

 何もなかったテヴェレ川の東側も町になり、人口も増え、ローマという小さな都市がはじまりました。

 ロムルスの跡を継ぐのは誰でしょうか?

【ニ代目の王 ヌマ】

 ロムルスが暗殺されたかどうかはわかりませんが、そのあとに王になる人はどんな人だったでしょう。

 ローマ人の期待を込めて選ばれた人は、ローマに移住しないで元の地に残ったサビーニ族のヌマという人でした。

 農業に従事しながらもたいへん知識が深く、40歳という年齢だったので本人は断ってはいましたが、元老院の強い要請でローマに来たのでした。

 ローマの王は世襲制ではなく、選挙によって選ばれました。今のアメリカの大統領のようなものでしょうか。

 ヌマの業績は、それまでの暴力と戦争で大きくなってきたローマに、法と習慣の改善を行ったということです。「秩序の確立」ということで、人間としての礼節と自らの力の限界を知ること、また、人間を超える存在への恐れなどを教えようとしました。

 やはりギリシアの哲学などを学んでいたのでしょうか。都市としての暮らしに必要な知識や考え方を整備していったのではないかと思います。

 ヌマの業績は他にもあります。

 門や入口の守り神で戦いの神でもあるヤヌス神殿を建てました。戦争時には出入口の扉は開けられ、平和の時期には閉じられたと言いますが、戦争が続いたローマの歴史では閉じていた時期はどれぐらいだったでしょう。そして、現在はどうなっているのでしょうか。

 ヌマは防衛のための戦いはするけど、普段は農業と牧畜で生活できるようにしようとしました。知的です。そして、ローマ市民をそれぞれの仕事に守り神をつけて、組合を作りました。部族間の抗争を防ぐのに役立ったそうです。

 徐々にローマには他の部族の人も住むようになり、エトルリア人の町もできていました。エトルリア人はいろいろな技術を持っていますから、町が栄えたのではないでしょうか。

 暦の改革は、一年を12ヵ月と決め、カエサルの改正まで650年間使われます。暦はすでにエジプトなどの農業などで使われていたのではないでしょうか。ヌマの知識はやはり他国の文明や文化を学ぶということで深まったのでしょうね。私としても、あらためて学ぶということの大事さを感じます。

 ヌマの業績のなかでは宗教の改革が大きいそうです。

 ローマはたくさんの神がいますが、それらの神々にヒエラルキー(階級)を与えたといわれます。ギリシア・ローマの多神教は人間の行いや倫理道徳を正す役割を神に求めないといわれ、人間並みの欠陥を持つ人々に親しまれる神だったようです。

 ローマ人は守り神として、神に守護を求めたのだそうです。努力する人に援助をするということでしょう。そして、最高神祇官と巫女という神官の組織を整えました。巫女以外は普通の生活をしていて、市民集会の選挙で決まります。

 ユピテル・・・最高神
 マルス・・・軍神
 ヤヌス・・・軍神
 ケレス・・・農業の女神
 バッカス・・・葡萄酒作り
 メリクリウス(マーキュリー)・・・経済力
 アスクレピウス・・・病気
 ユノー・・・幸福な結婚と女の立場の守護神
 ヴィリプラカ女神・・・夫婦喧嘩の守護神

 神様との付き合い方もローマ人は上手いですね。人っていうのはその時々の感情に左右されますが、その度にそれぞれの神様にお願いするのって、気を紛らわしてくれることでしょうから。


 このようにして二代目の王ヌマは本格的な改革をし、43年間の後、亡くなりました。
 
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by arrive_at | 2007-10-23 11:38 | イタリア  

昔日のローマ #6 ロムルス

 エトルリア人やギリシア人などがイタリア半島にはすでに住んでいて、それぞれの文化があったのですが、それでもまだ紀元前8世紀には誰も住んでいない地域や、都市として発達していないところがありました。

 イタリア北部のアドリア海に面するポー川、ルビコン川やティレニア海に面するアルノ川、テヴェレ川は有名です。

 その中のテヴェレ川の下流から約30キロ上流にローマはあります。ローマの中心を蛇行しながら流れていて、その東側に7つの丘がありました。カピトリーノ、パラティーノ、アヴェンティーノが中心にあり、早くから人が住みました。

 その後、ローマの人口が増えるにしたがって、クィリナーレ、ヴィミナーレ、エスクィリーノ、チェリオなどに人が住むようになっていきます。高さは海抜50メートルもないそうですが、現在ではどのようになっているのか、行ってからのお楽しみです。

【建国の王 ロムルス】

 ロムルスはパラティーノの丘に、レムスはアヴェンティーノの丘にそれぞれ陣取っていたのですが、レムスがロムルスの陣内に入ったことから争いが始まり、レムスは殺されてしまいました。

 ロムルスが一人だけの王になってから、パラティーノの丘に城壁をめぐらせ都市を建設しました。神々に犠牲を捧げる式を行ったのが、紀元前753年4月21日だそうです。

 その時のロムルスは18歳だそうで、この若者についてきた3000人のラテン人とによってローマは建国されたとされています。

 ロムルスの国を治める方法は、国政を3つに分けたことです。王、元老院、市民集会という、まだ人口も少ない町では、人々の支持を得た王であったのでしょうか。

 元老院は100人の長老からなり、王に助言をする役割でした。元老院は選挙で選出されるのではありませんが、公的な機関とされていました。

 市民集会はローマ市民全員で行われました。王や政府の役人を選出するのです。また、王が考えた政策を元老院が助言し、それを承認するかどうかを決めるのが市民集会ということです。戦争を始めるのも、講和をするときもこの承認を必要としました。

 ローマに来たロムルスとラテン人たちは独り者の男達であったようで、羊飼いのボスといわれたロムルスやレムスたちと共に、新しい土地を求めて流れてきたというところでしょうか。

 ローマの近くにはサビーニ族がいましたが、ロムルスはサビーニ族を祭りに招待しました。油断したサビーニ族の若い女にロムルスたちは襲い掛かったといわれています。それは「サビーニ族の女たちの強奪」といわれています。

 逃げ帰ったサビーニ族は娘たちを返すように言いますが、ロムルスたちは正式に結婚して妻にしてしまいました。当時の結婚とは何て戦略的なものだったのでしょう。花嫁不足はどこのどの時代でも問題ですね。

 その後はサビーニ族とローマの戦いが何度もありましたが、すでに結婚をしていた妻達が、自分の親や兄弟と夫達がお互いに殺し合うのを見かねて仲裁に入りました。そして殺し合いもなくなったそうです。

 ロムルスはサビーニ族と合同するかたちでローマへの移住を提案し、クィリナーレの丘を居住区としました。 サビーニ族の王タティウスはロムルスと共同統治を行い、サビーニ族の長老は元老院の議席も持つようになりました。

 このようにしてローマは人口を増やし、兵力を大きくしていきました。

 ロムルスが統治を始めて39年が経ちましたが、前715年、軍隊閲覧の時に天候が急変し、雨や雷の中で突然ロムルスが消えてしまったそうです。一説によると、やはりロムルスに反抗するものたちによる暗殺ではないかとも言われますが、真実は一体どうなのでしょうか。

 
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by arrive_at | 2007-10-23 10:20 | イタリア  

昔日のローマ #5

 イタリア半島にはいくつかの川がありますが、その中でもアドリア海の奥にはポー川、少し南下してルビコン川、ティレニア海側にはアルノ川、南下してテヴェレ川が有名です。

 いまでは、北イタリアといえばベニス、ミラノなどの地域を指し、中部イタリアはフィレンツェ、ローマを指し、南イタリアはナポリから南という感じです。

 しかし現在とは違って、歴史の中では年代によっての都市や地方の呼び名が違い、それぞれの文化も違うということになります。昔をしのぶつもりなら、アペニン山脈や川などの地理を思い浮かべながら、それぞれの地方にどんな人々がどのようにして暮らしたかを想像するしかないのでしょう。

【エトルリア人とその文化】

 紀元前9世紀にはイタリア中部では初期鉄器文化がありました。この地方はエトルリアと呼ばれ、現在のトスカーナ州のフレンツェやウンブリア州のペルージアなどはエトルリア民族の都市といえるそうです。

 それらの都市は海に直接面しているわけではないのですが、地中海を船で行き来するギリシア人との交流があったということです。細長い国土の真ん中を山脈が走り、その北側と南側に海があるというのは、日本の国土を思い出せば簡単です。しかし、日本よりは小さなイタリアですから、山では鉱山があり、そして海へもそう何百キロとは離れていなかったので、外国との交流もできたのではないでしょうか。

 ギリシャからもたらされた青銅の技術、そして、美術・工芸品などの質の良いものがギリシャ本土から直接もたらされていたようです。

 紀元前8世紀から前6世紀までは、エトルリアの勢力はたいへん強く、現在のベネチア近くのポー川から南を北はエトルリア、南はギリシアとしていたそうです。そのころのギリシアはイタリア半島への移住者が多く、ギリシアの植民地もありました。

 紀元前3000年ごろを見ても、エジプトやオリエントの国々は古くから栄えていましたので、その文化が地中海を伝わってエトルリアに影響を与えたことでしょう。鉱業、農業、食物の保存方法、建築や土木技術、生産物の輸出入、それらの交易を通して文化的なものが入ってきたのではないでしょうか。

 西洋美術史には、エトルリア美術という分野もあります。

【ギリシア人とその文化】

 紀元前8世紀のギリシアは都市国家の時代でした。経済は発達し、人口も増加し、それらの人々が国外に出て生きていく時代へと変わっていきました。ギリシア人は海洋民族でも有名で、外国に植民地を求めて出て行きました。それは黒海からスペインまで幅広く、中でもとなりのイタリア半島はギリシャの植民地がたくさんありました。

 イタリア半島をブーツに例えると、かかとのプリンディシ、土踏まずのターラント、足の裏の指の付け根のクロトーネ、つま先の先にはボールのようなシチリア島があり、つま先と接するようにメッシーナ、カターニア、シラクサ、アグリジェント、パレルモと時計回りに島を一周します。特にパレルモは北アフリカに近く、カルタゴからも近いところなので、パレルモはカルタゴの植民地でした。引き続き、足の甲からむこうずねに向かってナポリ、クーマ、カプアなどがギリシアの植民地でした。

 これらの植民地は、ギリシアの高い文明や生活技術、商品の生産などを行い、短期間に発展していったそうです。貿易品を持ち、海上を交通手段として商売は行われていたようですが、発展していたエトルリアとギリシャ植民地の間に挟まれたローマは農業と牧畜ぐらいしかない状態だったようです。



 それにしても、後から発達した国が栄えるという例はいくらでもあります。現在の大国アメリカでさえも、15世紀の大航海時代に発見されてから繁栄したものです。ローマが建国されてからどのように発展していったかがたいへん楽しみですね。

 

 
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by arrive_at | 2007-10-20 01:04 | イタリア  

昔日のローマ #4

 アルバロンガはラテン語で「白く長い町」だそうです。アスカニウスがアルバの王になりました。

 アルバ(ALBA)って、どこかの時計メーカーの名前ですよね。Alba Longaというスペルにも似ています。私も大事に使っていた時計です。

 ギリシャ神話の「パリスの審判」や「トロイの木馬」などで、ギリシャの神々が人を救ったり、神と人間の間に子供が生まれたりと、伝説と本当の歴史が入り混じったような話の時代が続きますが、紀元前8世紀では、まだまだ史実かどうか分からない部分があります。

 そういった意味では、ローマが建国された日にちがしっかりとわかっていること自体が、ちょっと怪しい気もしないでもないのですが。



【ロムルスとレムスのころ】

 トロイから逃げてきたアイネイアスの子孫で、アルバロンガ王の娘は巫女であったそうです。その王女は軍神マルスに見初められ、双子を産みます。

 王位を狙っていた叔父によって巫女にされたわけですが、神がかり的な双子出産をしました。それを知った叔父によって、双子はテヴェレ河に籠に入れられて流されます。

 河岸に着いた籠の中の赤ちゃんを、母親オオカミが乳をあげて育てます。その後、羊飼いが赤ちゃんを抱いて帰って育てたそうです。

 双子はロムルスとレムスという名前だそうです。これの名は親が付けたのか、オオカミが付けたのか、羊飼いが付けたのか、そういった細かいことは全然わかりません。名付けた人も分からないままに、この名前は世界的に有名になっていくのでしょうね。

 ロムルスとレムスは羊飼いの中でも力を出し始め、アルバに攻め込み、王を倒しました。それは母親と自分達の運命への復讐でしょうか。

 そして、更にロムルスとレムスはテヴェレ河下流の地に新しい都市を作りました。

 ロムルスはパラティーノの丘に、レムスはアヴェンティーノの丘に陣取りましたが、その境界を破ったレムスをロムルスは殺してしまいました。当時は、人々は教養も無く野蛮そのものだったのではないのでしょうか。

 こうして紀元前753年4月に、ロムルスの名前を取ってローマが誕生したそうです。

 
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by arrive_at | 2007-10-16 21:45 | イタリア  

昔日のローマ #3

 帝国書院の標準高等社会科地図の30ページを開いています。

 小アジアのトルコとヨーロッパのブルガリア人民共和国を区切るのが、海水の黒海であり、ボスボラス海峡です。そして、それはマルラマ海、ダーダネルス海峡を経て、エーゲ海へと続きます。

 トルコといえば、庄野真代さんのヒット曲(1978年)はどうでしょう。
 「いつか忘れていった こんなジタンの空箱   ひねり捨てるだけで あきらめきれる人…」

 ジタンがなんなのかは分かりませんが、「飛んでイスタンブール 光の砂漠でロール」ってぐらいで、エキゾチックなところではないかと想像してしまいます。

 友達の、f 嬢は今日からトルコの旅に出掛けて行ってしまいました。いいなぁ、トプカプ宮殿。

 
 話を戻します。
  
 イスタンブールはボルボラス海峡のブルガリア側にありますが、トロイはイラン・イラク・シリア側のダーダネルス海峡近くにあります。


【トロイ(トロイア)戦争のころ】

 直接にはローマとは関係ないのですが、この話からローマへと続いていくようなので、端折って書きます。

 ギリシャ神話としてのあらすじですが、ヘラ(結婚と母性、貞節の女神)、アテナ(都市の守護女神)、アフロディテ(愛と美と性の女神)が、一番美しいのは誰かを競い、ゼウスはトロイの王子パリスに審判させました。「パリスの審判」で、スパルタ王メネラオスの妃ヘレネと結婚できるというアフロディテの誘いにのってしまいます。

 ギリシャのスパルタから、パリスはヘレネをトロイに連れて行きます。スパルタ王はギリシャ軍に総大将アガメムノン指揮でトロイに攻め込みます。

 なかなか決着がつかないまま10年目にギリシャのパトロクロスという勇者が死にます。その親友アキレウスはトロイを攻めます。トロイは防備の為、城内に閉じこもって戦い続けます。

 このときギリシャ武将のオデュッセウスが考えた大きな木馬を城の前に置いたままギリシャ軍は引きあげてしまいます。その木馬をトルコ軍は城内に入れ、人々が眠りについたころ、木馬の内部に潜んでいたギリシャの兵士が出てきて、トロイはついに陥落してしまいます。これが有名な「トロイの木馬」ですね。


 ローマと関係があるのは、このトロイから脱出したアイネイアスなんです。アイネイアスはトロイの王の婿で、ヴィーナスと人間の間に生まれた子で、ヴィーナスが正に神がかりで助けたのでしょうか。

 アイネイアスとトロイの王、息子そして何人かの者と船で逃げたのですが、エーゲ海、イオニア海、シチリア島を西に回ってティレニア海、北アフリカのカルタゴ、イタリア中部のクーマ、ガエタ、ラヴィーノと、漂流していきました。

 アイネイアスはそこのラティウム国王の娘と結婚し、トロイに変わる都を作りました。アイネイアスの死後は、息子のアスカニウスが王位を継いだそうです。その後、アスカニウスはアルバロンガという新しい都を作りました。アルバロンガというのがローマになる前の都市だったようです。

 
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by arrive_at | 2007-10-16 21:25 | イタリア  

昔日のローマ #2

 世界文化史年表という長い巻物のような年表を広げると、紀元前の各地の文化が一覧できます。

【紀元前3000年ごろ】

 イラン・トルコあたりではルリスタン文化・ガリト文化・トロイ文化などがあります。その中でも、前2500年ごろにはシュメール初期王朝がはじまります。

 エジプトでは先王朝が前3100年ごろまであり、その後は初期王朝がはじまります。

 ギリシア・クロアチアあたりではギリシア本土はヘラディク文化、クレタ島ではミノア文化、キュクラデス諸島はキュクラデス文化がありました。

 イタリアあたりではラゴッツァ文化・レメデッロ文化・アペニン文化・パドゥス文化・タプソス文化・など、ローマが出来る前にはたくさんあったようです。

 やはり西アジアや北アフリカのオリエント文化圏が早くから栄えていたようです。

【紀元前1500年ごろ】

 アジアでは夏(か)という国があったそうですが、それはまだ詳しくは分かっていませんが、前1500年ごろには殷(いん)または商(しょう)と呼ばれた国ができます。

 西アジアではバビロニア王国・アッシリア・フェニキアなどがあります。

 エジプトでは新王国時代です。

【紀元前1000年ごろ】

 中国では周(しゅう)の時代です。

 西アジアではヘブライ王国・イスラエル・ユダです。

 エジプトでは後期王朝、フェニキア植民地ではカルタゴと呼ばれる時代です。

 ギリシアではスパルタ・諸ポリスの時代になります。

【ローマ建国】

 紀元前753年4月21日がローマ建国の日とされています。
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by arrive_at | 2007-10-16 15:01 | イタリア  

昔日のローマ #1

 映画「ローマの休日」はあまりにも有名ですが、よくあるギャグで「ローマの平日」なんていうのも使い古した言葉です。タイトルを最初は平日にしましたが、それじゃあ、あんまりですよね。結局「昔日のローマ」なんてことにしました。

 私の手元には塩野七生著「ローマ人の物語」が何冊かあります。また、岩波ジュニア新書「ローマ帝国」青柳正規著もあります。それらを読みながら、自分なりに未だ見ぬイタリアを感じようと思っています。

 

 
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by arrive_at | 2007-10-16 14:31 | イタリア  

お久しぶりの徒然日記

 いやいや、ブログ更新をまるっきりさぼっていました。 

 約1ヶ月半ぶりですが、少しは書き込みをしようと思っています。

 今までとは違った内容で、誰に語るでなし、気の向くままでしょうか。


 で、次はローマなんちゃって。
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by arrive_at | 2007-10-02 15:55 | 徒然日記