CHANEL ROUGE ALLURE 24 EVOCATION


by arrive_at

カテゴリ:イタリア( 13 )

昔日のローマ #13

 紀元前753年以来244年間も続いたローマ王制時代は終わり、その間に現れた七人の王についても書き終わりましたが、それでも、このメモの元になる「ローマ人の物語Ⅰ」は第1巻にして、まだ半分もいっていません。

 そんな大掛かりな時代メモを書き出したのが間違いかもしれませんが、とにかく、端折ってでも進めていきたいと思います。


 紀元前509年、王制打倒を果たしたのは、ルキウス・ユニウス・ブルータスでした。第1回目の執政官はブルータスとコラティスを選出し、今後は王位は誰も就かず、1年ごとに市民集会で執政官を選ぶというきまりにしました。

 ブルータスはあだ名で、母方の叔父は王タルクィニウスで、姓もブルータスではなかったのです。先王の時代を「阿呆」(ブルータス)と軽蔑されながら耐えていたのが、先見と実行の能力を持ち、改革の主導者となりました。

 元老院の強化策として、ロムルスの時代は100人、五代王タルクィニスの時代は200人、そして、ブルータスの時代は300人に増やしました。

 その元老院での演説のはじめの呼び掛けの言葉は、「パートレス・コンスクリプティ」でした。その訳は「父たちよ、新たに加わった者たちよ」ということで、旧勢力と新参者を表わしています。

 そして、王制から共和政への移行はなかなかたいへんで、変革があり、不満が出たり、いろいろなことが起こりました。


【ブルータス】
 
 ローマ共和政により、元老院に親が死ぬまで入れない若者反逆を企てました。そして、追放されたタルクィニスを呼び戻し、王政復古を企てたのですが密告されます。逮捕された中には、執政官のブルータスの息子二人もいました。

 国家反逆罪の罪人として、ブルータスは家長として息子二人を処刑しました。ブルータスはその処刑が終わるまで同席したのですが、その潔さへの賞賛とは反対に、もう一人の執政官コラティスは疑いがあると市民に見られたのか、執政官を辞退し、家族ともども隣国に亡命しました。自主的に亡命したものには罪は問わないという決まりがありました。 

 その後の執政官にはヴァレリウスが就きました。

 七代目の先王タルクィニスは王位復帰をあきらめず、諸都市に応援を求め、戦いがはじまります。

 タルクィニスの長男アルンテスとブルータスが一騎打ちをするのですが、お互いにいとこ同士です。しかし、アルンテスには追放された怒りがあり、ブルータスには公人と私人の狭間を埋め切れなかった者の絶望がありました。
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by arrive_at | 2007-11-02 21:24 | イタリア
 第六代王セルヴィウスは紀元前579年から前534年まででした。このセルヴィウスの統治は素晴らしく、市民にはたいへん助かったのですが、その次の代はもうムチャクチャというか、この辺が歴史の面白いところですね。



【最後の王「尊大なタルクィニス」】

 五代王タルクィニスの娘は養子のセルヴィウスと結婚したのですが、その間に生まれた二人の娘がいます。一人は勝ち気で、一人はおとなしい性格でした。

 五代王タルクィニスにも実子の二人の息子がいました。一人は気の強い野心家で、一人は穏健な性格だったそうです。

 先王セルヴィウスは性格の違うもの同士を結婚させましたが、性格の中和どころか気の強いものが優しいものを虐げるという、とんでもない結婚だったようです。

 気の強い王女トゥーリアと義弟のタルクィニウスはお互いの結婚相手がなぜか急死し、たぶん、とんでもないことに野心の為に殺したのかもしれませんが、そして、この野心家同士が結婚しました。

 まだ先王セルヴィウスが生きていた頃だったのですが、さすがに先王も気落ちしていたようです。

 気の強い王女トゥーリアにたきつけられた野心家のタルクィニウスは、ローマに住むエトルリア人を味方につけ、王セルヴィウスを元老院入口前の階段から投げ落としました。屈辱にさいなまれながら王セルヴィウスは宮殿に戻ると、タルクィニウスの刺客が剣を刺し、最後には父親のタルクィニウスに娘トゥーリアの乗った馬車が襲いかかりました。本当に親を殺したのです。

 タルクィニウスは王になり、トゥーリアは王妃になりました。すげー!

 もっとすごいのですが、先王派の元老院議員を殺し、市民集会や元老院の選出無しに王についたのです。

 さらにこの後に続くスキャンダルは有名になり、今年(2007年)の夏、東京都美術館で開催されたパルマ展の中にもこの話を題材にした「ルクレツィアの死」を描いた絵は一枚ではありませんでした。

《スキャンダル》

 王の息子セクトゥスは、親族コラヌスの妻ルクレツィアに横恋慕し、襲う。
 その夜のうちにルクレツィアはローマの父と、アルディアの戦場の夫の下に変事を知らせ、信頼できる者を連れてすぐ帰るようにと召使を出す。

 父ルクレティウスはヴァレリウスを、夫コラティスはユニウス・ブルータスを連れて帰る。

 四人の前で妻ルクレツィアは復讐を誓わせて短剣で自害する。

 ブルータスは遺体をフォロ・ロマーノに運び、蛮行の犠牲者を出してはならないと演説をする。
そして、王と王の一家全員をローマから追放することを市民に提案した。

 ローマ人の不満は爆発し、ブルータスの市民兵結集の呼びかけに応じた。

 王タルクィニウスは戦場のアルディアからローマに帰るが、ローマの城門は閉ざされていた。

 王は自分に従う兵とエトルリアのカエレを頼って去った。王妃トゥーリアはローマを逃げ出す。

 三人息子のうち二人は亡命し、父に同行する。

 犯人の息子は別の町に逃げ出したが、以前に侮辱した者の手で殺された。



 25年間の治世もこのようにして終わりました。


 このローマの建国以来の7人の王の時代も最後となり、244年間のローマ王制時代が終わったといわれます。

 この次は、ローマ共和政時代に入っていきます。


 
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by arrive_at | 2007-11-02 18:57 | イタリア
 第五代王タルクィニスは紀元前615年から579年でした。その跡を継ぐセルヴィウス・トゥリウスは先王の養子でした。そして実子を王にはせず、この優秀なセルヴィウスが高い評価を受けていた先王の後を継いだのは、ローマにとっても良かったのではないのでしょうか。

 血筋よりも能力を評価したというのは政治ではたいへん重要なことですね。

【六代目の王セルヴィウス・トゥリウス】

 先王タルクィニスの後を継ぎ、「セルヴィウスの城壁」といわれるローマ全体を守る城壁が作られました。7つの丘を囲み、外からの攻撃に耐えられるということです。

 また、アヴェンティーノの丘に狩りの女神ディアナの神殿を建て、その立派さに他者もローマに入り詣でることができました。

 軍制の改革としては、市民は軍役を努めることで税金を払うということの代わりにしました。そして、投票権を与えます。

 干拓地だったところに、軍神マルスから取った「マルスの広場」(カンプス・マルティウス)を作り、軍団の集結地と市民の投票場としました。

 軍制=税制=選挙制

 戦力を知る為に人口調査をしました。ローマでは100人隊という最小単位で一票とし、小選挙区制としました。ギリシアのアテネは一人一票だったのです。

 また、16歳未満の未成年男子、軍務を終えた60歳以上の老齢者、女、奴隷、子供しか財産がない者はプロレターリという無産者としました。

 セルヴィウスは戦法を確立しました。ローマ軍は前衛・本隊・後衛に分かれ、前衛は敵とぶつかって戦線を乱し、本営は主力の重装歩兵は勝負をし、いざとなれば3番手の後衛が駆けつけるという戦法です。騎兵は機動部隊として活躍しました。

 そうして、ローマ軍団の合理的な戦法によって周辺の部族にも勝ち、44年間の治世も終わりました。
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by arrive_at | 2007-11-02 18:10 | イタリア
 第四代王マルティウス・アンスコは紀元前641年から前」616年まで治めていました。その後を継いだのが良くも悪くもタルクィニスで、その後の家系の悲劇も含めると、歴史としては面白いものがあります。というのは、王とはいえ人間ですから、いい人もいれば悪い人もいるということでしょうか。

 自分のことを振り返ってみても、同じ血筋なのにこうも考え方や性格が違う者がいるのかと、悲しさと共に笑いさえこみ上げるのです。

【五代目の王タルクィニス・プリスコ】

 タルクィニスは裕福なエトルリア人であったようで、たくさんの家財道具と使用人たちを引き連れて、ローマにやってきました。

 タルクィニスの父はギリシアのコリントからエトルリアに亡命し、母はエトルリアの位の高い家の出身です。

 両親から相当な財産を受け継いだタルクィニスは、王アンスコの遺言執行人に指名されます。そして、その後王に自ら立候補します。

 ローマの市民の生活水準も向上し、町も大規模な開発がなされます。

 丘と丘の間の湿地帯には地下水道、干拓事業で平地になり市場になります。地下水道をふさぐ石の舗装がなされたり、公共の建造物もできます。

 フォールーム・ロマーノム、フォロ・ロマーノが誕生します。 大競技場(チルクス・マクシムス)、 カピトリーノの丘に神殿の建設、オスティアなどテヴェレ川の河口に港を持ち、民族別の丘も交流がなされました。開発事業はローマ軍兵士の仕事でした。

 干拓、地下水道、道路舗装、神殿などの技術はエトルリア人の技士から伝わったようです。農耕民族から技術者へと変わり、土木事業の資材はエトルリアから運ばれたようです。

 王タルクィニスは奴隷の子を養子にし、王タルクィニスが暗殺されるや、妻は実子よりもこの子供セルヴィスを娘の夫にし、王に即位させました。

 利発で勇気ある子だと、タルクィニスには先見の明がありました。そして、37年間の治世でした。
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by arrive_at | 2007-11-02 17:44 | イタリア
 第三代王トゥリウスは紀元前673年から前641年になります。そして、次の王が市民集会と元老院で選出されました。

【四代目の王アンコス・マルティウス】

 アンコス・マルティウスは二代目の王ヌマの娘の子供になります。サビーニ族出身でローマで生まれ育ちました。

 アンコスの時代はまだまだ戦闘が続き、移住者などで人口が増えたローマでも、その周辺のラテン族やサビーニ族などの近隣部族との戦いは続きました。そして、負けた部族の都市は破壊され、その部族はローマに強制移住をさせられました。

 ローマ人同化政策というのは奴隷にはなりません。同じローマ人の市民権を与えて人口を増やしていくのです。そうしてローマという都市がだんだんと大きくなっていったようです。

 ローマの7つの丘はそれぞれの移住者の住むところになりました。

パラティーノ・・・ラテン系ローマ人

クィリナーレ・・・サビーニ系ローマ人

チェリオ・・・アルバ人

アヴェンティーノ・・・新しい移住者

カピトリーノ・・・神々の住まい

ヴィミナーレ、エスクィリーノ・・・上部平地は狭く、海抜も低い


 アンコス王はテヴェレ川にはじめて橋をかけました。西岸のジャンニコロを要塞化し、7つの丘を結んだのです。

 また、テヴェレ川下流のオスティアを征服し、塩田事業を手に入れました。農業と牧畜業に加え、産業が増えたようです。

 アンコス・マルティウスの治世は25年間でした。
 
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by arrive_at | 2007-11-02 17:05 | イタリア
 「ローマ人の物語」という本は全部で15巻あるらしいのです。それを1冊ずつこつこつと読み進めるには何週間もかかります。

 さらに、それを思い出しては整理しながら書き留めるのは時間のかかることです。古代ローマの歴史を知りたければ、さっさと本を読み進めることが近道でしょう。私のように、メモ代わりに整理していると全然歴史の話が進みませんから。

 建国の王ロムルスが紀元前753年にローマを作り、39年間の統治でした。二代目のヌマは前715年から43年間の統治でした。そして、3代目へと続きます。

【三代目の王トゥリウス・オスティリウス】

 トゥリウスはロムルスと同じラテン系のローマ人で、攻撃型の男のようでした。ローマの祖先の地でもあるアルバを攻め込みました。

 ローマはまだ80年の歴史ですが、アルバは400年の歴史を持つ独立国です。近くにはエトルリアという大きな都市もあり、小さなローマの攻撃がアルバの運命を変えました。

 ローマが大きくなるためにもアルバを攻略し、アルバの都市は破壊されましたが、住民はローマへの移住を強制され、ローマ市民になりました。

 ローマ市民ということは、市民の義務として軍務を勤めることにありますから、ローマの戦力も増強されました。

 チェリオの丘に移住し、クインティリウス、セルヴィウス、ユリウスというアルバの有力家はローマ貴族として元老院になりました。後のユリウス・カエサルは子孫になります。

 トゥリウスの軍事力は大きくなりましたが、そのトゥリウスは雷に打たれて死んだそうです。32年間の統治でした。
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by arrive_at | 2007-11-02 16:40 | イタリア
 紀元前753年から前715年の39年間に、ロムルスはローマの王としてその国を治めました。

 何もなかったテヴェレ川の東側も町になり、人口も増え、ローマという小さな都市がはじまりました。

 ロムルスの跡を継ぐのは誰でしょうか?

【ニ代目の王 ヌマ】

 ロムルスが暗殺されたかどうかはわかりませんが、そのあとに王になる人はどんな人だったでしょう。

 ローマ人の期待を込めて選ばれた人は、ローマに移住しないで元の地に残ったサビーニ族のヌマという人でした。

 農業に従事しながらもたいへん知識が深く、40歳という年齢だったので本人は断ってはいましたが、元老院の強い要請でローマに来たのでした。

 ローマの王は世襲制ではなく、選挙によって選ばれました。今のアメリカの大統領のようなものでしょうか。

 ヌマの業績は、それまでの暴力と戦争で大きくなってきたローマに、法と習慣の改善を行ったということです。「秩序の確立」ということで、人間としての礼節と自らの力の限界を知ること、また、人間を超える存在への恐れなどを教えようとしました。

 やはりギリシアの哲学などを学んでいたのでしょうか。都市としての暮らしに必要な知識や考え方を整備していったのではないかと思います。

 ヌマの業績は他にもあります。

 門や入口の守り神で戦いの神でもあるヤヌス神殿を建てました。戦争時には出入口の扉は開けられ、平和の時期には閉じられたと言いますが、戦争が続いたローマの歴史では閉じていた時期はどれぐらいだったでしょう。そして、現在はどうなっているのでしょうか。

 ヌマは防衛のための戦いはするけど、普段は農業と牧畜で生活できるようにしようとしました。知的です。そして、ローマ市民をそれぞれの仕事に守り神をつけて、組合を作りました。部族間の抗争を防ぐのに役立ったそうです。

 徐々にローマには他の部族の人も住むようになり、エトルリア人の町もできていました。エトルリア人はいろいろな技術を持っていますから、町が栄えたのではないでしょうか。

 暦の改革は、一年を12ヵ月と決め、カエサルの改正まで650年間使われます。暦はすでにエジプトなどの農業などで使われていたのではないでしょうか。ヌマの知識はやはり他国の文明や文化を学ぶということで深まったのでしょうね。私としても、あらためて学ぶということの大事さを感じます。

 ヌマの業績のなかでは宗教の改革が大きいそうです。

 ローマはたくさんの神がいますが、それらの神々にヒエラルキー(階級)を与えたといわれます。ギリシア・ローマの多神教は人間の行いや倫理道徳を正す役割を神に求めないといわれ、人間並みの欠陥を持つ人々に親しまれる神だったようです。

 ローマ人は守り神として、神に守護を求めたのだそうです。努力する人に援助をするということでしょう。そして、最高神祇官と巫女という神官の組織を整えました。巫女以外は普通の生活をしていて、市民集会の選挙で決まります。

 ユピテル・・・最高神
 マルス・・・軍神
 ヤヌス・・・軍神
 ケレス・・・農業の女神
 バッカス・・・葡萄酒作り
 メリクリウス(マーキュリー)・・・経済力
 アスクレピウス・・・病気
 ユノー・・・幸福な結婚と女の立場の守護神
 ヴィリプラカ女神・・・夫婦喧嘩の守護神

 神様との付き合い方もローマ人は上手いですね。人っていうのはその時々の感情に左右されますが、その度にそれぞれの神様にお願いするのって、気を紛らわしてくれることでしょうから。


 このようにして二代目の王ヌマは本格的な改革をし、43年間の後、亡くなりました。
 
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by arrive_at | 2007-10-23 11:38 | イタリア
 エトルリア人やギリシア人などがイタリア半島にはすでに住んでいて、それぞれの文化があったのですが、それでもまだ紀元前8世紀には誰も住んでいない地域や、都市として発達していないところがありました。

 イタリア北部のアドリア海に面するポー川、ルビコン川やティレニア海に面するアルノ川、テヴェレ川は有名です。

 その中のテヴェレ川の下流から約30キロ上流にローマはあります。ローマの中心を蛇行しながら流れていて、その東側に7つの丘がありました。カピトリーノ、パラティーノ、アヴェンティーノが中心にあり、早くから人が住みました。

 その後、ローマの人口が増えるにしたがって、クィリナーレ、ヴィミナーレ、エスクィリーノ、チェリオなどに人が住むようになっていきます。高さは海抜50メートルもないそうですが、現在ではどのようになっているのか、行ってからのお楽しみです。

【建国の王 ロムルス】

 ロムルスはパラティーノの丘に、レムスはアヴェンティーノの丘にそれぞれ陣取っていたのですが、レムスがロムルスの陣内に入ったことから争いが始まり、レムスは殺されてしまいました。

 ロムルスが一人だけの王になってから、パラティーノの丘に城壁をめぐらせ都市を建設しました。神々に犠牲を捧げる式を行ったのが、紀元前753年4月21日だそうです。

 その時のロムルスは18歳だそうで、この若者についてきた3000人のラテン人とによってローマは建国されたとされています。

 ロムルスの国を治める方法は、国政を3つに分けたことです。王、元老院、市民集会という、まだ人口も少ない町では、人々の支持を得た王であったのでしょうか。

 元老院は100人の長老からなり、王に助言をする役割でした。元老院は選挙で選出されるのではありませんが、公的な機関とされていました。

 市民集会はローマ市民全員で行われました。王や政府の役人を選出するのです。また、王が考えた政策を元老院が助言し、それを承認するかどうかを決めるのが市民集会ということです。戦争を始めるのも、講和をするときもこの承認を必要としました。

 ローマに来たロムルスとラテン人たちは独り者の男達であったようで、羊飼いのボスといわれたロムルスやレムスたちと共に、新しい土地を求めて流れてきたというところでしょうか。

 ローマの近くにはサビーニ族がいましたが、ロムルスはサビーニ族を祭りに招待しました。油断したサビーニ族の若い女にロムルスたちは襲い掛かったといわれています。それは「サビーニ族の女たちの強奪」といわれています。

 逃げ帰ったサビーニ族は娘たちを返すように言いますが、ロムルスたちは正式に結婚して妻にしてしまいました。当時の結婚とは何て戦略的なものだったのでしょう。花嫁不足はどこのどの時代でも問題ですね。

 その後はサビーニ族とローマの戦いが何度もありましたが、すでに結婚をしていた妻達が、自分の親や兄弟と夫達がお互いに殺し合うのを見かねて仲裁に入りました。そして殺し合いもなくなったそうです。

 ロムルスはサビーニ族と合同するかたちでローマへの移住を提案し、クィリナーレの丘を居住区としました。 サビーニ族の王タティウスはロムルスと共同統治を行い、サビーニ族の長老は元老院の議席も持つようになりました。

 このようにしてローマは人口を増やし、兵力を大きくしていきました。

 ロムルスが統治を始めて39年が経ちましたが、前715年、軍隊閲覧の時に天候が急変し、雨や雷の中で突然ロムルスが消えてしまったそうです。一説によると、やはりロムルスに反抗するものたちによる暗殺ではないかとも言われますが、真実は一体どうなのでしょうか。

 
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by arrive_at | 2007-10-23 10:20 | イタリア

昔日のローマ #5

 イタリア半島にはいくつかの川がありますが、その中でもアドリア海の奥にはポー川、少し南下してルビコン川、ティレニア海側にはアルノ川、南下してテヴェレ川が有名です。

 いまでは、北イタリアといえばベニス、ミラノなどの地域を指し、中部イタリアはフィレンツェ、ローマを指し、南イタリアはナポリから南という感じです。

 しかし現在とは違って、歴史の中では年代によっての都市や地方の呼び名が違い、それぞれの文化も違うということになります。昔をしのぶつもりなら、アペニン山脈や川などの地理を思い浮かべながら、それぞれの地方にどんな人々がどのようにして暮らしたかを想像するしかないのでしょう。

【エトルリア人とその文化】

 紀元前9世紀にはイタリア中部では初期鉄器文化がありました。この地方はエトルリアと呼ばれ、現在のトスカーナ州のフレンツェやウンブリア州のペルージアなどはエトルリア民族の都市といえるそうです。

 それらの都市は海に直接面しているわけではないのですが、地中海を船で行き来するギリシア人との交流があったということです。細長い国土の真ん中を山脈が走り、その北側と南側に海があるというのは、日本の国土を思い出せば簡単です。しかし、日本よりは小さなイタリアですから、山では鉱山があり、そして海へもそう何百キロとは離れていなかったので、外国との交流もできたのではないでしょうか。

 ギリシャからもたらされた青銅の技術、そして、美術・工芸品などの質の良いものがギリシャ本土から直接もたらされていたようです。

 紀元前8世紀から前6世紀までは、エトルリアの勢力はたいへん強く、現在のベネチア近くのポー川から南を北はエトルリア、南はギリシアとしていたそうです。そのころのギリシアはイタリア半島への移住者が多く、ギリシアの植民地もありました。

 紀元前3000年ごろを見ても、エジプトやオリエントの国々は古くから栄えていましたので、その文化が地中海を伝わってエトルリアに影響を与えたことでしょう。鉱業、農業、食物の保存方法、建築や土木技術、生産物の輸出入、それらの交易を通して文化的なものが入ってきたのではないでしょうか。

 西洋美術史には、エトルリア美術という分野もあります。

【ギリシア人とその文化】

 紀元前8世紀のギリシアは都市国家の時代でした。経済は発達し、人口も増加し、それらの人々が国外に出て生きていく時代へと変わっていきました。ギリシア人は海洋民族でも有名で、外国に植民地を求めて出て行きました。それは黒海からスペインまで幅広く、中でもとなりのイタリア半島はギリシャの植民地がたくさんありました。

 イタリア半島をブーツに例えると、かかとのプリンディシ、土踏まずのターラント、足の裏の指の付け根のクロトーネ、つま先の先にはボールのようなシチリア島があり、つま先と接するようにメッシーナ、カターニア、シラクサ、アグリジェント、パレルモと時計回りに島を一周します。特にパレルモは北アフリカに近く、カルタゴからも近いところなので、パレルモはカルタゴの植民地でした。引き続き、足の甲からむこうずねに向かってナポリ、クーマ、カプアなどがギリシアの植民地でした。

 これらの植民地は、ギリシアの高い文明や生活技術、商品の生産などを行い、短期間に発展していったそうです。貿易品を持ち、海上を交通手段として商売は行われていたようですが、発展していたエトルリアとギリシャ植民地の間に挟まれたローマは農業と牧畜ぐらいしかない状態だったようです。



 それにしても、後から発達した国が栄えるという例はいくらでもあります。現在の大国アメリカでさえも、15世紀の大航海時代に発見されてから繁栄したものです。ローマが建国されてからどのように発展していったかがたいへん楽しみですね。

 

 
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by arrive_at | 2007-10-20 01:04 | イタリア

昔日のローマ #4

 アルバロンガはラテン語で「白く長い町」だそうです。アスカニウスがアルバの王になりました。

 アルバ(ALBA)って、どこかの時計メーカーの名前ですよね。Alba Longaというスペルにも似ています。私も大事に使っていた時計です。

 ギリシャ神話の「パリスの審判」や「トロイの木馬」などで、ギリシャの神々が人を救ったり、神と人間の間に子供が生まれたりと、伝説と本当の歴史が入り混じったような話の時代が続きますが、紀元前8世紀では、まだまだ史実かどうか分からない部分があります。

 そういった意味では、ローマが建国された日にちがしっかりとわかっていること自体が、ちょっと怪しい気もしないでもないのですが。



【ロムルスとレムスのころ】

 トロイから逃げてきたアイネイアスの子孫で、アルバロンガ王の娘は巫女であったそうです。その王女は軍神マルスに見初められ、双子を産みます。

 王位を狙っていた叔父によって巫女にされたわけですが、神がかり的な双子出産をしました。それを知った叔父によって、双子はテヴェレ河に籠に入れられて流されます。

 河岸に着いた籠の中の赤ちゃんを、母親オオカミが乳をあげて育てます。その後、羊飼いが赤ちゃんを抱いて帰って育てたそうです。

 双子はロムルスとレムスという名前だそうです。これの名は親が付けたのか、オオカミが付けたのか、羊飼いが付けたのか、そういった細かいことは全然わかりません。名付けた人も分からないままに、この名前は世界的に有名になっていくのでしょうね。

 ロムルスとレムスは羊飼いの中でも力を出し始め、アルバに攻め込み、王を倒しました。それは母親と自分達の運命への復讐でしょうか。

 そして、更にロムルスとレムスはテヴェレ河下流の地に新しい都市を作りました。

 ロムルスはパラティーノの丘に、レムスはアヴェンティーノの丘に陣取りましたが、その境界を破ったレムスをロムルスは殺してしまいました。当時は、人々は教養も無く野蛮そのものだったのではないのでしょうか。

 こうして紀元前753年4月に、ロムルスの名前を取ってローマが誕生したそうです。

 
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by arrive_at | 2007-10-16 21:45 | イタリア