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昔日のローマ #6 ロムルス

 エトルリア人やギリシア人などがイタリア半島にはすでに住んでいて、それぞれの文化があったのですが、それでもまだ紀元前8世紀には誰も住んでいない地域や、都市として発達していないところがありました。

 イタリア北部のアドリア海に面するポー川、ルビコン川やティレニア海に面するアルノ川、テヴェレ川は有名です。

 その中のテヴェレ川の下流から約30キロ上流にローマはあります。ローマの中心を蛇行しながら流れていて、その東側に7つの丘がありました。カピトリーノ、パラティーノ、アヴェンティーノが中心にあり、早くから人が住みました。

 その後、ローマの人口が増えるにしたがって、クィリナーレ、ヴィミナーレ、エスクィリーノ、チェリオなどに人が住むようになっていきます。高さは海抜50メートルもないそうですが、現在ではどのようになっているのか、行ってからのお楽しみです。

【建国の王 ロムルス】

 ロムルスはパラティーノの丘に、レムスはアヴェンティーノの丘にそれぞれ陣取っていたのですが、レムスがロムルスの陣内に入ったことから争いが始まり、レムスは殺されてしまいました。

 ロムルスが一人だけの王になってから、パラティーノの丘に城壁をめぐらせ都市を建設しました。神々に犠牲を捧げる式を行ったのが、紀元前753年4月21日だそうです。

 その時のロムルスは18歳だそうで、この若者についてきた3000人のラテン人とによってローマは建国されたとされています。

 ロムルスの国を治める方法は、国政を3つに分けたことです。王、元老院、市民集会という、まだ人口も少ない町では、人々の支持を得た王であったのでしょうか。

 元老院は100人の長老からなり、王に助言をする役割でした。元老院は選挙で選出されるのではありませんが、公的な機関とされていました。

 市民集会はローマ市民全員で行われました。王や政府の役人を選出するのです。また、王が考えた政策を元老院が助言し、それを承認するかどうかを決めるのが市民集会ということです。戦争を始めるのも、講和をするときもこの承認を必要としました。

 ローマに来たロムルスとラテン人たちは独り者の男達であったようで、羊飼いのボスといわれたロムルスやレムスたちと共に、新しい土地を求めて流れてきたというところでしょうか。

 ローマの近くにはサビーニ族がいましたが、ロムルスはサビーニ族を祭りに招待しました。油断したサビーニ族の若い女にロムルスたちは襲い掛かったといわれています。それは「サビーニ族の女たちの強奪」といわれています。

 逃げ帰ったサビーニ族は娘たちを返すように言いますが、ロムルスたちは正式に結婚して妻にしてしまいました。当時の結婚とは何て戦略的なものだったのでしょう。花嫁不足はどこのどの時代でも問題ですね。

 その後はサビーニ族とローマの戦いが何度もありましたが、すでに結婚をしていた妻達が、自分の親や兄弟と夫達がお互いに殺し合うのを見かねて仲裁に入りました。そして殺し合いもなくなったそうです。

 ロムルスはサビーニ族と合同するかたちでローマへの移住を提案し、クィリナーレの丘を居住区としました。 サビーニ族の王タティウスはロムルスと共同統治を行い、サビーニ族の長老は元老院の議席も持つようになりました。

 このようにしてローマは人口を増やし、兵力を大きくしていきました。

 ロムルスが統治を始めて39年が経ちましたが、前715年、軍隊閲覧の時に天候が急変し、雨や雷の中で突然ロムルスが消えてしまったそうです。一説によると、やはりロムルスに反抗するものたちによる暗殺ではないかとも言われますが、真実は一体どうなのでしょうか。

 
by arrive_at | 2007-10-23 10:20 | イタリア

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