星になって輝く

お久しぶりのエントリです。

もう、このブログを始めた頃がいつだったかわかりませんが、韓流ドラマなどを見ていたのですから、8年以上前ぐらいでしょうか。

その頃から2度の引越しをして、家族が独立、夫が去り、今は一人となりました。
夫はある日急に亡くなったので、私としても大変辛かったのです。

そして約2年が経ち、今は夕方の4時からBS放送で韓国ドラマ「星になって輝く」というのを見ています。

これは今年の4月に最初の数回を見始めて、それから途中は見ずにいましたが、また連続ものの途中から見始めました。

内容ですが、戦争終了間近の韓国でミスンと言う若い女性が付き合っていたドンピルという男性の子供を身ごもります。

ミスンの父親が日本人をかくまったということで村八分にされ、ミスンはドンピルにも捨てられ、ある会社経営者の敷地内の小屋で子供を産みます。
その会社経営者の家でも若奥さんが子供を産むのですが、残念ながら死産でした。
しかし、そこの姑は小屋で出産したばかりのミスンの子供と死産だった子供をすり替えてしまいます。

そこから悲劇の物語が始まるのですけど、すでに今は6月末であり、その復讐劇は最終に入ろうとしています。

いつものように見過ごしたプレビューはネットで調べますけど、やはり文章で書かれたものよりもドラマで見る方がわかりやすくて面白いと思います。

そして、いつも思うのですけど、日本のようにすましたドラマよりも韓国ドラマの方が義理や恩に対して儒教の影響が強くあり、無慈悲な仕打ちや我慢もありますけど、それに対しての自己主張や抵抗の言葉の激しさに驚きます。
ドラマ自体はしつこくドロドロとして面白いのですけど、これが韓国の国民感情かと思うと、日本人の私としては凄まじい迫力に一歩引いていしまいます。

まあ、郷に入っては郷に従うとも言われますし、他国の文化をあれこれ言うのはよくないでしょうから、黙ってドラマを楽しみたいと思います。

それにして、美男美女の主役よりも、やはり嫌われ役の俳優の方が演技力もあり表現力も迫力がありますね。面白いと思いました。










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# by arrive_at | 2017-06-28 21:06 | ドラマあれこれ  

2015.11.13パリ多発テロについて

残念なことに、今月パリではイスラム国と名乗る過激派集団によるテロ事件が起きました。

129人といわれる犠牲者に哀悼の意を表したいと思います。

事件は3グループによる同時多発テロだそうです。

Aグループはフットボールスタジアムで爆発。
Bグループは飲食店を3カ所移動しながら銃撃。
Cグループはコンサートホールに立てこもり銃乱射と自爆。

11月13日金曜日の夜9時半頃に事件は起こりました。
フランスはシリア空爆などを行っていて、イスラム国は9月にはフランスへの攻撃について計画をしたそうです。
今夏はシリアからの難民約80万人が欧州に流入していますが、犯人はその中に紛れ込んでいた可能性があるそうです。

また、こういったグループは兄弟や仲間たちの数人で行動しているようで、フランス近隣の国から指令が出たりと大きな組織がある可能性があるそうです。

事件後すぐにフランスはシリアの北部ラッカを空爆したそうです。

戦争は国際法で禁止されていますが、攻撃された後で報復や制裁は軍事行動と呼ばれていて、軍事行動は禁止されていません。

イスラム国は欧州を攻撃することで恐怖を与えようとしているのでしょうけど、それで制裁がなくなるとも思えませんが、やったらやり返すという主義ではいつになっても戦いは終わりません。

中東と欧州の戦いは宗教の戦いであり、政治での戦いであり、シリア自体がアサド国王対国民の戦いでもありますので入り組んでいます。

今回はフランスへの攻撃ということでしたが、イスラム国は米国、サウジアラビア、ロシアも攻撃すると警告しています。

どこの国でもこれからは気を付けて頂きたいと思います。

事件後のパリは公共機関や観光地の閉鎖が続いているようで、夜は店が早く閉まり、外出する人もはやく帰宅しているようです。
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# by arrive_at | 2015-11-16 22:13  

パリは遠くになりにけり

あらあら、前回のエントリから1年近く経ってしまいました。

といってもその1年間で色々なことがあり引っ越しをしたりして、今ではプチ豊かな毎日です。

だってリヴィングも広くなり、バルコニーも広くなって色々な花を植えて楽しんでいますもの。w

一つ問題があるとすれば、若さと苦労がなくなったことでしょうか。

まあ、歳を取るとはこういうことですし、人生はどんどんと前へ進んでいくということでしょうか。

そういえば、最近友達が増えました。ボランティアに行って仲良くなりました。にこっ。

そしてもっともっと遊びたいですね〜。

次回までに色々と試してみますね。
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# by arrive_at | 2014-05-21 22:40 | 徒然日記  

チャリング・クロス街84番地

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まあ、なんということでしょう。

ブログの更新が2年と3ヶ月も経ってしまいました。
2011年の3月といえば、東日本大震災がありました。
もう首都圏も余震が続き、まるでアイドリング症候群のように何もなくても自分がゆらゆら揺れているという錯覚に悩まされていました。

それから2年が経ちましたが、小さな地震は各地でありますが大きな地震の方はあらかた納まったようです。

さて、せっかくブログを更新しましたから、ロンドンのチャリング・クロスにある古書店とアメリカのニューヨークに住む脚本家の女性の心温まる書簡集を紹介しましょう。

この本は市立図書館で何気なく見つけたものですが、なかなか面白かったです。
本を借りる時にタイトルだけで決めたので、出だしも読んでいませんでしたから、読みはじめてからビックリしました。映画のストーリーのようでもあります。


チャリング・クロス街84番地
84,Charing Cross Road

Helene Hanff
ヘレーン・ハンフ著 江藤淳訳 中央文庫 1984年初版 1992年4版 520円

今年の3月ぐらいに、テレビドラマでは「ビブリオ古書店の事件簿」というマンガで有名になった物語をドラマ化して、主演は剛力彩芽と脇役にエグザイルのアキラが出演していました。

ドラマの方は剛力の演技力不足といわれ、主人公が謎を解いていくのはあまりぱっとしませんでしたが、舞台が鎌倉の古書店ということで、稀少本などを買い付ける眼力やその本の価値を知る知識などが必要とされる専門的な仕事だということがよくわかりました。

さて、この本は正に古書を扱う専門家の男性従業員フランク・ドエル氏と注文主のニューヨークの貧乏作家ミス・へレーン・ハンフのやり取りが醍醐味です。

注文する本というのは英国の古くからある革表紙の本であったり、装丁の美しい本であったり、またはなかなか手に入らない本などの注文もあり、その本の質の良さに驚かされると翻訳者の江藤淳氏は解説で書いています。

私は英語は全くダメダメですので、英語の原語の本などは逆立ちしたって読めませんが、アメリカ女性が英国に憧れて本を注文する様は微笑ましくもあり、また、紳士的に対応するドエル氏は慎ましくもあります。

それはディケンズの「クリスマス・キャロル」の強欲な経営者スクルージーの事務員の男性のように真面目でもあり、また、古書店を想像すると映画ハリーポッターに出てくるシーンで、新学期用の教材をダイアゴン 横丁で買い求める時の古い店のようでもあり、想像力を働かせながら読んでいました。

同時にロンドンの観光ガイドブックを開いて地図を見てみましたが、私はロンドン旅行でチャリングクロス駅には行きましたが、残念ながらその駅の周辺のナショナルギャラリーやトラファルガー広場には行っていませんのでどのような町かは分かりません。

たぶん、テムズ川のほとりに近いところでしょうし、それは日本では神田川の近くの神田駅周辺にある古本屋街のようなところなのかもしれません。

たぶん、たぶんの繰り返しですけど、なかなかロンドンの町を知ることはありませんし、遠い外国のことですから漠然と想像しながら読書を楽しむことがいいのでしょう。


それほどインパクトのある物語ではなく、本当に手紙のやり取りをしての書簡集ということで、ロンドンのマークス社という古書店は今もあるのではないでしょうか。
もしロンドンに行かれた方は是非訪ねてみて下さい。

あるのかなあ?


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# by arrive_at | 2013-06-05 21:27 | ロンドン  

パリとピアノ

 
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エリック・サティという音楽家についてTV番組を見ています。

 おおっ。なんとパリの街めぐりの映像が、私が歩いて回ったパリの街そのものです。

 同じところだから当たり前と思うかもしれませんが、華やかなパリというよりは、1800年代後半のモンマルトル、音楽家、画家などが集まってパリの頭脳と呼ばれた時代を呼び覚ますような感じです。

 私がパリから帰ってから、暫くはピアノのジャズ演奏のCDを聴いていました。曲はアメリカの分かりにくいものではなくて、スタンダードナンバーをジャズに編曲したものですから分かりやすいです。

 エリック・サティの曲と言えばけだるくて展開もない暗くて静かなイメージですが、それが国際都市パリにはよく似合います。それはニューヨークがやはり現代の国際都市としての深さと広さがあるように、19世紀から世界の文化のトレンドをリードしてきた洗練された街なのでしょうか。

 まあ、TVで再現された自分の記憶からの雰囲気ですから、それこそ思い入れだけです。しかし、セーヌ、シテ島、エッフェル塔、オペラ座、パッサージュなどなどを19世紀を想像しながら散策するのであれば、サティの曲などはぴったりではないでしょうか。

 そういえば、暗いと思っていたACのCMですが、金子みすずの詩「嫌いと言えば嫌いと答える…こだま、それは誰でも…」 の音楽ってサティの曲みたいですね。詳しくないのでどうかはわかりませんが。

 話は変わりますが、地震前に図書館で借りた本があります。

 
パリの秘密
鹿島茂 著
中央公論社 2006年 1900円

 この本はいいですよ。
 パリの秘密といっても、それは怪しい内容ではないのです。というか、著者の19世紀マニアがパリのあちこちをめぐり案内するコラム集ですから、パリの匂いを感じ、過ぎた時代を感じるには大変お勧めの本です。


 さて、音楽は詳しくない私ですが、サティの有名な作品の名前を調べました。

エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(1866-1925)

パリ音楽院在学中にピアノ小品『オジーヴ』『ジムノベディ』『グノシエンヌ』などを発表。

 おお、ユトリロのお母ちゃんで有名な芸術たちと浮名をながしたシュザンヌ・バラドンとサティは一緒にいた時もあったのですか。そしてサティはフラれて以降、女性とは付き合わなかったとか。あのバラドンの毒気にやられたのかな。ユトリロは岡本太郎と同じぐらいひどい母親を持ったものですが、かの子とバラドン、どっちがひどい女かは、一体どうなんでしょう。脱線しました。w



 ベル・エポック(Belle Époque 仏:良き時代)とは、厳密な定義ではないが、主に19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのパリが繁栄した華やかな時代、及びその文化を回顧して用いられる言葉である。

 エコール・ド・パリは、「パリ派」の意味で、20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちを指す。

 日本人画家では藤田嗣治(1886-1968)などが活躍し、それこそ近代芸術の幕開けといういかにもパリらしい時代だと思います。

 アメリカの作家ヘミングウェイ(1899-1961)もそういった時代をパリで過ごし、大作家への道を歩み始めたというのもなんだか素敵です。

 いや~、余裕があればもう一度行ってみたいところです。

(目がゆるゆる。憧れって遠くで思っているのが花とも思いますが。w)


 
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# by arrive_at | 2011-03-20 23:01 | パリ  

デューラー

 ドイツの画家、アルブレヒト・デューラー。

 なんだかすごい作品ですが、画家が自画像を描いた初めての人だそうです。

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1493年、22歳





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1498年、27歳





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1500年、29歳
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# by arrive_at | 2011-02-17 22:22  

大晦日の前日は晦日

 今年もあと1日となりましたが、なかなかいろいろとあった1年でした。
 
 冬の引越し、春のルーブル美術館探訪、新しいスポーツ、水彩クラブへの復帰と、自分としては変化の年だったと思います。

 一番変化したのは、これからの近い将来に向けて考え方が固まってきたことと、趣味の世界を広げた途端、仲間が急に増えたということ。

 しかし、やはり基本は自分自身がしっかりと目標を持っていないと何事も成果は生まれないだろうということでしょうか。

 住む場所も変わり、新しい出会いもあり、気持ちを変えて一歩踏み出せば何かがはじまるということを実感しました。

 最近調べた言葉から、「歳月人を待たず」 というのがあります。

 年月は人の都合などにはお構いなしにどんどん過ぎ去ってゆくものだ。
 若いときにはやるべきことを努力してやれの意で使うが、
 本来は、人生はすぐに過ぎ去ってしまうものだから、
 酒の飲める若いうちに大いに飲んで楽しむのがよいの意。



 なるほど、月日の経つのは早いというか、絶対に待ってはいないというのは実感します。だからこそ、遠慮せずに躊躇せずに、自分を信じて前に進むということの大事さがあるのでしょう。

 生きるとは生きている間に感じることでしょうから、それを自分で自覚するというのがポイントですね。
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# by arrive_at | 2010-12-30 21:35 | 徒然日記  

横浜スケッチ

 2010年も師走となりました。

 今年は念願のパリ・ルーブル美術館に行くことができましたし、10月からは水彩画クラブに8年ぶりで再入会しました。

 若い時からの趣味を続けるのはなかなか難しいのですが、それでも日々変化をするものと、繰り返して同じことをするものがあるとしたら、自分の得意なものは繰り返すことができるのでしょうか。

 約30名ほど在籍するクラブですが、いつもは20名を超える出席率だそうで、平均年齢80歳代とご長寿クラブではありますが、面白いので皆さんと一緒に絵を描いています。

 昨日は横浜のスケッチでした。絵具の使い方がいまいち分からないので絵の出来には不満足ですが、それでも異国情緒漂う港を満喫できたと思います。

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# by arrive_at | 2010-12-02 08:54 | 徒然日記  

ビッグベンの時計台

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パリからユーロスターに乗ってロンドンに着きました。

 朝は2時間半と途中下車する駅もありましたが、夜は2時間15分でパリ・北駅に到着しました。


 ロンドンへの1日遠足は、新幹線で品川から京都ぐらいの所要時間でした。
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# by arrive_at | 2010-10-26 09:41 | ロンドン  

セーヌ川

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 春のパリ旅行から半年も経ってしまいました。

 旅の季節は冬から春へと変わるあたりで、気温も16℃ぐらいだったと思います。ちょうどパリマラソンと重なりましたから、4月第2週から第3週あたりです。

 今までの海外旅行で一番ぼろっちいホテルに泊まりましたが、それはなにかエコール・ド・パリと呼ばれる外国からきた20世紀前半の芸術家になったような気分です。

 今では21世紀ですから、すでに100年前を追体験するような気分でセーヌ川を見ました。
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# by arrive_at | 2010-10-26 09:21 | パリ  

現在のフランスの女性

 フランスに憧れようが憧れまいが、それとはぜんぜん関係なく現実は知っておいたほうが良いでしょう。

 フランス女性の意識ということで、結婚する、結婚しない、結婚しないけど一緒に暮らすなどは良く知られていますが、それがかつての保守的な家族の在り方から大変化した結果だとは想像がつきます。また、子供を持つ、しかも仕事は続けるという困難な状況を支える、フランスの幼稚園と保育園が合体した制度と子供の養育費の助成なども見逃せません。

 一見アバウトな感じのする制度ですが、人間らしく生きるということの意味と、その矛盾への対処の仕方は、あいまいという日本らしさとは違って、フランスの知恵と実行力の結果でしょうか。

 フランスの社会制度や実態はあまり詳しくは知りませんが、知識の一つということでエントリします。

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「コンカツ」にハテナ顔? フランス女の愛と自由
2010年03月30日14時30分 / 提供:独女通信
 恋も仕事も子育てもスマートにこなし、加齢による目尻のシワさえも美しくみえるフランス人女性。日本でも、ファッションやライフスタイルのお手本として毎月のように女性誌に取り上げられていると言っても過言ではない。その魅力は一体何なのか? 日本人女性とフランス人女性の違いについて考えてみた。

 フランス人男性と結婚して、現在パリで生活しているトモミさん(34歳)は、過去の自分についてこう振り返る。

 「日本で22歳から約10年間、アパレル業界でバリバリ仕事していました。その頃は、いつか独立してマンションを買って、独身を貫こうと思っていました。だって、結婚して仕事を続ける事は出来るけれど、その先はどうなるのだろう?って。 妊娠、子育てで自分の仕事に影響してしまうのではないか? 結婚したら自由が利かなくなると思っていましたから」

 結婚と仕事、どちらを取るか悩んだ時期が3年ほどあったというトモミさん。ちょうどその頃、トモミさんはお母さんから「留学してみたら?」と勧められ、小休憩のつもりでフランスへ留学した。そして、現地で今のご主人と出会い、結婚。トモミさんがフランスに移り住んで感じた、日本とのライフスタイルの違いについて伺った。

 「フランスに来て感じたことは、女性の独立心がとても強いこと。結婚や子育てにおいて、国の制度がきちんとしていることです。こちらでは、結婚しなくても男女が一緒に住み、女性は仕事を持ち、子どもがいるケースが非常に多いです。主人の友人たちのなかでも、子どもがいて正式に結婚しているのは、3組に1組くらいです」

 というように、日本とフランスの大きな違いのひとつは、多様なカップルのあり方にも関係があるようだ。周知の通りフランスでは、カップルの選択肢は3つある。法的手続きをせず一緒に生活する“事実婚”、結婚よりも法的制約が少ないが、パートナーとして優遇措置が受けられる連帯市民協約“PACS”と、“結婚”の3つ。国民は自分たちのスタイルを自由に選択できる。

 フランス人女性のソフィーさん(41歳)は「フランスでも専業主婦が多い時代がありました。しかし、次第に女性たちは慣習に捕われない考えをもって人生を選択し始めました。私自身、ボーヴォワールのセンセーショナルな作品の影響かもしれません。今は結婚していようが、独身だろうが、フランスでは偏見を感じることはありません。女性は仕事と子供どちらをとるかという考えもありません。日本で流行っている“コンカツ”の意味がわからない。フランスでは愛と結婚は別。結婚しなくても幸福に生きられる。実際、離婚も多い。とにかく、私たちは“自由”な生き方、多様な選択ができます」

 先月、国連が制定した「国際女性の日」を中心に開催された『日仏フォーラム・女たちのダイアログ』という、日本とフランスを代表する女性作家たちが“女”についてディスカッションをするトークイベントへ行ってきた。そこで気になったのは、前記のソフィーさん同様、フランス人女性作家たちが口々に“自由”という言葉を発していたことだった。

 思春期に問いたくなるような質問だが、そのフランス人が言っている“自由”って何だと思いますか? とトモミさんに伺った。

 「その自由と言うのは、この国がいろいろな事に開放されている事かもしれません。例えば、仕事に関してですが、仕事上の不満も堂々とストライキをして自分達の意見を社長に訴えます。自分の意思をハッキリ言う、お世辞は言わない。自然で気取らなく、当たり前のことをして、頑張りすぎない国だなと、住んでみて居心地の良さを感じています」

 日本でも以前に比べれば、女性をとりまく状況が変ってきてはいるが、先進国のなかでは女性に対する様々な社会の対応が圧倒的に遅れている。また、独女たちのあいだでも「不況だからコンカツする」というように、女性の自立に対する意識も矛盾しはじめたような気がしてならない。

 年齢を重ねてもフランス女の目尻のシワが美しいと感じるのは、恐れを知らない“自立した女”という意識が心の底にしっかりと根付いているからかもしれない。独女のみなさん、コンカツに疲れたら一歩立ち止まって、自分という存在と自由な選択について考えてみるのもいいかもしれない。(オフィスエムツー/堂ナツコ)
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 目尻のしわがフランス人は美しいとは何と文学的な表現であり、それはリアルに言えば間違っています。しわはしわで、美しいもへったくれもない現実ですから、甘言にごまかされないで現実をしっかり見る必要があります。

 男尊女卑という考え方は世界中にたくさんあり、政治への参政権がない国もたくさんあります。女性の人権を認めるようになったのは、第二次世界大戦後の時代の流れであり、価値観の変化でもあります。

 家庭内で母親はさらにその親に躾けられるために、時代の価値観が継続することもあり、どうしても保守的な流れが家庭教育と各家庭の価値観に影響することでしょう。母親は娘の中に自分を見ているとはよく言われますが、娘の幸せを願って結婚を勧めるという価値観の継承もよくあることです。

 フランスは自由という言葉をよく使うそうですが、それは歴史から見ても独裁的な時代を過ぎて手に入れたもので、血と汗の結晶の結果なのかもしれません。日本は革命はありませんでしたから強烈な自由を求める行為にはピンとこないのかもしれません。

 母親の時代を超えることは素敵なことではりますが、新たな問題が出てくることも仕方ないことでしょう。結婚しない時代、子育てと社会進出の問題、自分自身のキャリアの問題など、あきらめなくてもいい時代になった分、選択肢の多さに悩むことでしょう。

 時代は変化もしますが揺り戻しもあると思いますので、どう上手く考えていくかが問われますね。

 日本の考えるべきことは、勤務時間の多さと、お金を稼ぐのが一番価値が高いと思いこんでいることでしょう。「足るを知る」というよな言葉は置いてきぼりにされ、効率主義と高利益主義というビジネスのお手本のような人生がはたして自分の求める理想の生き方かどうかを、そういった大事なことを後回しにしているところがまだまだですね。

 もっと個人でも大事なことは何かを考える必要があると思います。女性が一人で考える習慣を身につけるには、もちろん教育がかかせません。自分の親も、また自分自身をも客観的に見ることのできる思考が大事なんでしょうね。
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# by arrive_at | 2010-04-03 11:55 | パリに行こう  

モスクワ地下鉄連続爆発

 2010年3月29日、モスクワ市内を走る地下鉄の2駅で29日朝、連続した爆発があり、ロシアの緊急事態省によると、爆発で少なくとも35人が死亡、40人が負傷。爆発は最初にルビャンカ駅で発生、約30分後に同じ路線のパルククリトゥーリ駅で起きた。


 今回の私のパリ旅行はモスクワ経由です。テロはどこででも起こり得ると心得ておいた方がいいのでしょう。

 ロンドン、パリ、ローマ、モスクワ、ヨーロッパの大都市は危険なのは分かっています。

 それでも行きますよ~。
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# by arrive_at | 2010-03-29 23:22 | パリに行こう  

とどのつまり

 以前に紹介した本ですが、やはりフランスについて書く人は違いますね~。

 「フランス生まれ」―美食、発見からエレガンスまで

 早川雅水著  集英社新書 660円 2002年3月20日


 フランスについての蘊蓄(うんちく)がすごいので、しばらくお休みしていましたが再び読みました。

 フランス人の気質は強烈で、皮肉や悪口雑言に夢中になる。日本人には手に負えない人種である。という風に書かれています。なんだか手ごわそうな人々に思えてきますね。

 しかし、一番ビビったのは「エレガンス」についての最後の文章です。

 語源はラテン語のエレガンシア。長い歴史と共に洗練されて行ったようで、エレガンスは寛容、愛、自由などと共にフランスではもっとも評価される最高善で、その意味は深いのだそうです。

 日本ではエレガンスを、モード(ファッション)、容姿、容貌などの目で見えるものにしか使いませんが、フランスでは心眼で感じ取る部分も含めて、えもいわれぬ魅力こそがエレガンスなのだそうです。

 筆者はエレガンスという語が似合うフランス人をかなり知っているそうです。彼らはいったいどこでエレガンス教育を受けたのか?

 それは一にも二にも家庭だそうです。

 《 ビアン・ネルヴェ―育ちがいい― 》と評価するということだそうです。

 家庭での躾けは挨拶や言葉遣いなどのマナーだけでなく、インテリア、モード(ファッション)などのセンス、味覚、社交術、美術、音楽の教養も家庭で養われるのだそうです。

 最後に、著者の2002年に92歳になるお母上もエレガンスを感じさせる方の一人だそうです。なるほど、この年齢の方で慶応大学、パリ大学の研究員などをされた筆者というだけで、なにやら優雅なおぼっちゃまという気もしないでもありません。


 最後には、優雅な家庭に育った者にこそフランスのエレガンスというものが感じられるという、高いところからの目線をちらりと感じました。

 本は大変素晴らしいものですし、読みごたえもありました。

 私の知らないものといえば、あとは貴族階級や社交界という特権階級が作りだしたフランスの歴史と文化でしょうか。


 私自身があまりにも庶民過ぎて、もうついてけませんねぇ~(笑)。

 しかし、勉強は勉強ですから、いちいち反応していないでしっかりと調べたいと思います。
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# by arrive_at | 2010-03-24 19:51 | パリに行こう  

パリに行きます

 やっと準備が整い、春にはパリに行きます。

 最近はルーブル熱も冷めかけていましたが、やっとチャンスが来ましたので、これから約1カ月の間に美術のおさらいです。

 最初は西洋美術史からでしょうか。目を通しておかないと、時代別の展示物が何かさっぱりわからないのもくやしいですからね。

 
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# by arrive_at | 2010-03-05 22:39 | パリに行こう  

プチブルジョワは小市民のこと

 19世紀末のベル・エポック、そして20世紀前半のエコール・ド・パリとパリの華やかな文化がアメリカ特にニューヨークに移って行った頃の様子がだんだんとわかってきました。

 やはり英国の産業革命以降の近代化から現代にいたるまでの変化は、たいへん興味がありますし、もっと勉強したいなあと思わせるところです。

 ブルジョワという言葉がフランスではよく使われますが、日本でも身分制度のあった時代、そしてそれが廃止された今でも人々の心にはまだまだ階級制度の偏見が無くなっているとは思えません。安田財閥の孫がオノ・ヨーコだとか、まだまだそういった見方をしてしまうという、人間はヒエラルキーには弱いようです。


 途中ですが、後半17分以降ベルバトフやギブソン投入も全然ゴールが決まりません。ゲームのほうはかなり緊迫していますが、見ているほうはだらけてしまって、もう、マンUは必死でルーニーなどはディフェンスしていたりしますが、どうも今日はゴールしないような気がします。せめて1ゴール決めてドローであってほしいところですが。

 ロスタイムにはヴィヂッチにゴール前に入れというファーガソンの指令ですが、近頃はMFがDFへ、DFがFWへといろいろと非常事態宣言を出しているような感じです。それはそうと、ベルバトフが床屋で髪を切ったのはなかなか男前になった感じがします。それくらいしか今日は見所が無いというか…。

 あ~あ、マンUは負けました~。ファンも呆然としていますが、ここはアストンヴィラの好試合をほめるべきでしょう。またもやチェルシーとの差が3に広がりましたね。










 


 話は元に戻って、今の日本の状態はどうかなとと考えますと、第2次世界大戦後64年が経っていますが、その間に戦争は無いし、他国からの侵入もないし、せいぜい経済危機が何度か訪れては持ち直して、国民全体は生活が豊かになり、衛生状態は良くなり、治安は何事もなくピストルなど持たなくても生活できますし、教育水準は理想的なほど上昇しています。

 これをブルジョワ化と言わずして何と呼ぶのでしょうか。

 しかもヨーロッパのような貴族というものを知らない小市民ですから、経済の発展により生活が豊かにはなりましたが、自立した生活思想など知る由もなく、とにかくお金に振り回され、大消費時代に乗せられて生き方も生活の質も商業主義に騙されながら消費が拡大してきたと思います。

 今の中国の成金市民の行動に似たところでしょうか。それのどこが悪いと言われたら何も言えませんが、それでもそのプチブルへと走る行動力は実質的な生活の向上と社会秩序がゆるむという、緊張感も精神も価値が無くなっていくような時代ではないかと思います。物資の豊富さなどは人間を考えさせなくなりますから、それこそアイデアもでなくなり情熱を持って追究するというような面倒くさいことを誰もしなくなります。

 切り開いて行くという余地が無くなっていくのでしょうか。なんだか、恵まれた状況がもたらすマイナス面が広がってしまって、足るを知るというような「知足」という英知にも気付かないのでしょうね。

 誰かがこれは良いと言う。それをよく考えずにそのまま鵜呑みにする。隣人と自分を見比べて同じでないと安心しない。そんな小市民が堂々と反省もないままにつき進んでいくという、1億総白痴とか言われたとしてもなんだかうなずけるような気がします。


 

1億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一がテレビの急速な普及を背景に生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いが強い。

元々は、1957(昭和32)年2月2日号の「週刊東京」(その後廃刊)における、以下の詞が広まった物である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言ってよい。

又、朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。ここでも、作家の松本清張が、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない。」と述べている。

このように、当時の識者たちは、テレビを低俗な物だと批判しているが、その背景には、書物を中心とした教養主義的な世界観が厳然としてあったと考えられる。

書物を読む行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、その為には文字が読めなければならないし、内容を理解する為に自分の頭の中で、様々な想像や思考を凝らさねばならない。

これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといった事を指摘しているようである。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』






 要するにものが分かる人は少なく、わからない人が社会の流れを作る要素が大きく、さらにわからない人がそれは正しいと信じて疑わないので、それを逸脱する人を落ちこぼれなどと差別するという感じでしょうか。

 隣もそのまた隣も自分と同じということのつまらなさ、それに気づかないセンスのなさ、自己の認識と自分でその価値を決めることのできる力、そういうことが大事だと思って実践する人は少ないのでしょう。

 受験勉強だけで人生の質も含めてすべてが決まると思ったらそれは違うでしょう。人間には生きる感性が大きく影響しますから、その感性を裏付けるためにも論理的に思想的な説明をすることができるくらい日常を拡大して観察し、理解することが大事かもしれません。

 まあ、TVですべてがわかるなんて思わないことですか~。

 ニュースとスポーツ中継だけは注目しますが。
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# by arrive_at | 2009-12-13 10:41 | パリに行こう  

フランスを知らなかった

 不倫王国のフランスと何度も書いておきながら、それらは本の受け売りでしかありません。それでは何故不倫王国なのかと不思議に思っていましたら、またもや本の受け売りとはいえ、じっくり読むとそうかなるほどというようなものを得ました。

 それにしても、我が家にもフランスのブランド品の一つくらいはあるものですが、こういった有名なものをどのようにとらえるかという、日本とフランスの違いも興味深いですね。
 
 たとえばルイ・ヴィトンなる革製のバッグや財布などですが、こういったものは海外旅行のついでに買ってくると多少は安くなると思っていましたが、もともと私の場合はたいしたものを買うわけではありませんので、このブランドの製品を誤解していました。

 「フランス生まれ―美食、発明からエレガンスまで」
早川雅水(はやかわ まさみ)著 集英社新書 660円 2002年3月20日

 上記の本の中からの抜粋です。




ルイ・ヴュイットン

 日本でもっとも知られているフランス・ブランド。ボンジュールやメルシーは知らなくてもヴュイットンは知っているというのだから大変なものだ。

 ルイ・ヴュイットンは創始者の氏名。フランスではブランド名、商品名、レストラン名などに創始者の氏名をそのままつけることが多い。

 ヴュイットン氏は船旅用のマル―トランク・行李(こうり)―を作ろうとのアイデアが彼の頭に浮かぶ。汽車の旅のつぎには船旅のブームが来ることを予想してのアイデアであった。

 1970年代までにヴュイットン氏はスペイン王、エジプトのスルタン、ヨーロッパじゅうの大貴族、大ブルジョワを顧客として獲得し、最初の海外支店をロンドンに開く。

 フランスの男性の目にはヴュイットンは非常に女性的に見えるらしく、そんなの恥ずかしくて持てるかよ、ということのようだ。

 《ヴュイットンのブチックに並んでいる日本人やアメリカ人を見ると笑いたくなるね。ヴュイットン級のブランド品は並んで買うものじゃない、家なりホテルなりに届けさせるものさ…》

 多くの日本人はルイ・ビトンと言う。正しくはルイ・ヴュイットンである。念のため。




 あっはっは。こういった蘊蓄(うんちく)を読んだ後ではなんだかどうだ~というような気がしてきます。それがにわか知識であっても。

 先日読んだばかりのコメディ小説

「くそったれ、美しきパリの12か月」
スティーヴン・クラーク 村井智之訳 
ソニー・マガジンズ 1700円 
2006年1月20日初版 

 これにしても、イギリス人男性がヘッドハンティングでフランスに来て、寝るところに困り、カフェでの注文で困り、浮気で困り、なんだかモラルが180°ひっくり返ったような不条理に悩まされながらも、最後は逆転ホームランかと思わせるようなパリ修行が書かれています。

 とくにイギリス人の男女の関係とフランスでの違いはもう何と言ったらいいのか、考え方を根こそぎ変えられるほどの違いだそうで、私などは日本人はまだ英国人に近いのだろうなと思ってしまったりもしました。

 そんな感じでフランスの文化や風習の違いを見ていましたら、またもや図書館で偶然に面白いパリ風物誌のような本に出会いました。



「エコール・ド・パリの日本人野郎  松尾邦之助交友録」
玉川信明 著 社会評論社 3200円 2005年11月20日初版


 1922年(大正11年)松尾邦之助は東京外語フランス語文科卒業後、半年後にパリに留学します。静岡県引佐(いなさ)郡に生まれ、森の石松のように人情味あふれる人で、呉服商の父親は酒飲みの道楽ものでありながら、永井荷風の『ふらんす物語』を読んで、息子をパリに留学させるのを怖がった。

 現在のパリ大、当時のソルボンヌ大学政治学部へと留学をしたが、ホームシックにかかり、彫刻家佐藤朝山と出会って二晩放蕩を続けたおかげでホームシックと孤独を脱するが、すぐにお金を使い果たして貧乏な生活をずっと続ける。

 パリの日本人の知り合った人の世話で社会の底辺で働くが、そのうちにパリの日本人会の書記の仕事にめぐり合い、留学中の日本人ともたくさん出会う。

 その中には藤田嗣治もいて、彼の波乱万丈、努力の末にフランスで認められるようになったころの出会いという。

 当時の日本人留学はドイツ、英国、米国などで政治や経済を学ぶ人が多く、フランスには画家の留学が多かったそうだ。

 藤田、佐藤以外にも、戸田海笛、佐伯祐三、小磯良平、大久保作次郎、岡見富雄、岡本太郎、大森啓助、小島善太郎、東郷青児、宮田重雄、向井潤吉、野口弥太郎、小山敬三、伊原宇三郎などモンパルナスに集まっていた。

 松尾は「東洋の会」で知り合ったスタイニル・ベル・オーベルランの協力により、1927年に『其角の俳偕(きかくのはいかい)』を共同翻訳し出版する。日本文化を理解するフランス人との出会いだった。





 そういった松尾邦之助の経緯を著者である玉川信明が読みやすく書いたものが本書です。

 第1章のタイトルは「では、陰気でうじうじした日本よ、さようなら」です。のっけから日本を陰気でうじうじしたというあたりがなんだかすごそうです。これって、JR東海の京都キャンペーン「そうだ 京都、行こう。」よりもすごいコピーですね。日本よ、さようならって…。

 エコール・ド・パリというのを1921年から1929年までの様子を松尾が感じただろう時代を取材していますが、当時は1914年に第1次世界大戦がはじまり、1918年に1次大戦が終わったばかりで、その後の世界恐慌まではパリは平和と繁栄を極めており、その当時の赤貧も何とかなるさとばかりに、日本からの留学生のフランスデビューを語っています。

 とくに松尾の個人主義(インディヴィデュアル)アナーキズムという思想については辻潤を師と仰ぎ、フランスのアン・リネルの考え方に共鳴し、今でいう世界に広がりつつある個人主義のもとになるフランスの場合の個人主義というものの本質をとらえているように思います。

 のちに松尾は日本を「この国ではとうてい精神(エスプリ)などというものは吸収されないし、まして、人間倫理に根ざした個人主義のイロニイなど、通じようもないのである」としています。

 近代の日本が歩む先を見つけに行ったのか、それとも世界の果てまで行ったのかはわかりませんが、当時のパリで生活をしながら吸収した思想が語られています。

 国家とか集団にとらわれていては個人主義というものの根本は今でも見えないと思いますが、それでも儒教や明治以降の国民道徳観念がぶっ飛んできた時代ですので、今という時代がかつてのエコール・ド・パリ=パリ派(抽象、シュルレアリズム)を意識せずに近づいたりそれを追い越したりしている時代になってきたのでしょうか。

 日本人が日本を知ってから世界を理解するというのは、時代という時間と何人もの人を介して少しずつ進むという気がしますが、それでも一個人がどれだけ自己を知って自己を育てているのかは疑問です。

 たまにはこういった本を読むことで客観的な目を養いながら、主観的な人生のよすがにしたいものです。
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# by arrive_at | 2009-12-13 10:39 | パリに行こう  

京都のコーヒーショップ

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 京都は日本で一番コーヒーの消費量が多いそうです。

 四条から三条へ向かっていくと、イノダコーヒの本店がありました。

 ケーキセットは880円。ラムロックというケーキはラム酒も程よくチョコレートも合っていました。

 この後、烏丸御池から地下鉄で京都駅へ直行し、JR新幹線で帰路につきました。

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# by arrive_at | 2009-12-03 23:39 | 徒然日記  

京都四条

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 京阪本線で祇園四条駅下車したのは午後3時頃です。

 鴨川から新京極、そして錦市場へと街歩きを楽しみました。


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# by arrive_at | 2009-12-03 23:34 | 徒然日記  

京都三昧

2009年11月30日

京都でランチ ということで、京懐石生ゆば料理をいただきました。
そのあとは東福寺の紅葉を堪能しました。素晴らしかったですよ。

写真は境内の日差しを写しました。

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# by arrive_at | 2009-12-02 22:32 | 徒然日記  

今度のデザインはもうクリスマス

 ハロウィンが終わったとは言え、デザインをすぐにクリスマスにしたのは早すぎでしょうか。

 しかし、これといったものを見つけたらすぐに取り掛かるほうがいいですね。時期を逃すよりは。

 私は別にキリスト教徒ではありませんので、日本にたくさんいる無宗教者の一人ではありますが、アメリカやヨーロッパ、その他の国々でのクリスマスの楽しみを考えると、早速私も楽しませていただこうと思います。

 フランスには行きたいのはやまやまですが、その前に京都の旅をエントリしたいと思っています。日本でもかなり面白い土地だからです。こうご期待!
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# by arrive_at | 2009-11-03 10:24 | 徒然日記  

プルーストの食卓(本)

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Dining with Proust
フランス語の原書の題名は"Proust, La Cuisine Retrouvée"(1991)

日本では1993年にJICC出版局から「プルーストの食卓」の書名で刊行されました。

紅茶に浸したマドレーヌ菓子を口に含んだ主人公がいきいきと過去の記憶を呼び覚ます魅惑的なエピソードが有名な長編小説「失われた時を求めて」(A la Recherche du Temps Perdu) の著者プルースト。

審美家であり、美食家でもあったプルースト(Proust, Marcel. 1871-1922)の小説には数々の料理が登場します。
本文では作品の引用とともにプルーストと「食」の関係が語られます。ベル・エポックの時代を彷彿とさせる美しい写真の数々。
再現された料理の写真のほか、食材、台所、セットされたテーブルなど、間接的に表現された「美食」の世界が私たちを魅了します。
後半は「失われた時を求めて」の他、習作「ジャン・サントイユ」(Jean Santeuil)、「サント・ブーヴに逆らって」(Contre Sainte-Beuve)、あるいはプルーストの手紙などに登場する料理のレシピを掲載。前菜から、メイン、デザートまで。
レシピは名シェフ、アラン・サンドラン(Alain Senderens)によるもの。2005年、ミシュランの三ツ星を返上したことが話題になったヌーヴェル・キュイジーヌの旗手です。
少し変わったところでは、"Japanese Salad"(Salade Japonaise)なるものも。材料を見る限り、日本とは全く関わりがなさそうなのですが、当時のジャポニスムの流行をうかがわせて、興味深いものです。

胡蝶書房より
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 横浜散策の後、図書館で借りた本を何気なく開いてみると、そこにはベル・エポックのパリとそしてフランスの文化がありました。

 いつかパリに行くぞとは思っていても、本当のところかの地のよさを私は知ってはいないのでしょう。フランス文学は知りませんし、哲学もわかりませんし、審美主義というものを見極める力もありませんから。

 それでも何事も一からの勉強ということです。

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料理一覧 (本書にレシピあり)
●アントレ
ブーシュのレーヌ風
ベーコン入りスクランブル・エッグ
キャベツとベーコンのスープ
ポテトサラダ
マッシュルーム、アスパラ、アサツキ入りオムレツ
サヤインゲンのサラダ
日本風サラダ
卵のココット
ゆで卵、トマト、アンチョビ、ツナ入りサラダ
チーズのスフレ

●魚介
舌ビラメのノルマンディ風
ニジマスのアーモンド風味
ヒラメのシードル蒸し
ヒメジのグリル
ブイヤベース
エイの焦がしバター・ソースかけ
イセエビのグリル(永遠の火で焼くドモワゼル・ド・カーン)
オマールエビのアメリカ風
カワハゼのフライ
コイのビール蒸し
ヒラメのホワイトソースかけ
カレイのグリル、オランデーズ・ソースかけ
オランデーズ・ソース
ボラのキュウリ添え
スズキのクール・ブイヨン煮

●肉類
牛肉のキャセロール蒸し
子ヒツジのもも肉ベアルネーズ・ソースかけ
ベアルネーズ・ソース
グリビッシュ・ソース
牛肉のゼリー寄せ(ブフ・モード・アン・ジュレ)
ヨークハムの蒸し煮
子牛の腎臓コニャック風味
ビーフ・ストロガノフ
子牛の蒸し焼き
牛の蒸し煮
プチット・マルミット(トリの内臓入りポトフ)

●猟獣野鳥と家禽類
野ウサギの赤ワイン煮込み
ウサギのベーコン風味
野ガモのコケモモ風味
若鶏のシャッスール・ソースかけ
若鶏のフィナンシエール・ソースかけ
ヤマウズラのひなのシャンパン風味

●デザート
イチゴのムース
モモのコンポート
パイナップルとトリュフのサラダ
マフィン
コーヒー・バヴァロア
クリスマス・プディング
アンズのタルトレット
ガトー・マンケ(スポンジケーキ)
リンゴのタルト(アップルパイ)
スフレ・オ・ショコラ
ライスのランペラアトリス風
アーモンド・ケーキ
プチット・ブリオッシュ
レーズン・ケーキ
プチット・マドレーヌ
クレーム・オ・ショコラ
クレーム・ア・ラ・ヴァニーユ
クレーム・オ・カフェ
ネッセルロード風プディング

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# by arrive_at | 2009-10-25 00:13 | パリに行こう  

ハロウインのデザインにしました

 チネチッタという神奈川県川崎市にある映画街は、この時期にはハロウインの飾り付けがなされ、仮装大会も催されます。けっこう雰囲気が楽しめますので、面白いですよ~。

 私はやはりティム・バートンの映画がこの時期は見たくなりますね。

●1958年8月25日~/アメリカ/監督(演出家)
http://homepage1.nifty.com/sountolab/timpro.htm

 B級映画に対する過剰な偏愛振りを抱えながらも、アニメーター出身らしい画面を構築する技術がバートン作品の最大の魅力だと思います。「シザーハンズ」や「ナイトメア~」等はセンチメンタルなニュアンスが強い分、幅広い層から支持を集め、特に後者は公開から13年を経た現在でも根強いを誇ります。
 マイノリティーな登場人物を常に物語の中心に置いていましたが、「エドウッド」あたりから作風が大きく変わり、作品がヒットしても「猿の惑星」など”空っぽ”な大作映画を躊躇なく手掛ける姿勢に、溜息を隠さない熱狂的なファンも少なくありません。(泣)

 1982年 『ヴィンセント』  脚本・監督・製作/ティム・バートン  音楽/ケン・ヒルトン

 1982年 『フランケン・ウィニー』  原案・監督/ティム・バートン  音楽/マイケル・コンヴァティーノ+デヴィッド・ニューマン

 1985年 『TVヒッチコック劇場』 「壺」  監督/ティム・バートン  音楽/ダニー・エルフマン

 1985年 『ピーウィーの大冒険』   監督/ティム・バートン  音楽/ダニー・エルフマン

 1988年 『ビートルジュース』   監督/ティム・バートン  音楽/ダニー・エルフマン

 .1989年 『バットマン』  監督/ティム・バートン  音楽/ダニー・エルフマン

 1990年 『シザーハンズ』  原案・監督・製作/ティム・バートン  音楽/ダニー・エルフマン

 1992年 『バットマン・リターンズ』   監督・製作/ティム・バートン  音楽/ダニー・エルフマン

 1993年 『ナイト・メア・ビフォア・クリスマス』  原案・製作・キャラ・デザイン/ティム・バートン  音楽/ダニー・エルフマン

 1994年 『エド・ウッド』  監督・製作/ティム・バートン  音楽/ハワード・ショア

 1995年 『バットマン・フォーエバー』  製作/ティム・バートン  音楽/エリオット・ゴールデンサル

 1996年 『ジャイアント・ピーチ』   製作/ティム・バートン  音楽/ランディー・ニューマン

 1997年 『マーズ・アタック』   脚本・監督・製作/ティム・バートン  音楽/ダニー・エルフマン

 1999年 『スリ-ピー・ホロウ』  監督/ティム・バートン  音楽/ダニー・エルフマン

 2001年 『猿の惑星』  監督/ティム・バートン  音楽/ダニー・エルフマン

 2003年 『ビッグ・フィッシュ』  監督/ティム・バートン  音楽/ダニー・エルフマン
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# by arrive_at | 2009-10-12 22:43 | 徒然日記  

子音プラスeの発音

 気が付けば日常のあちこちでフランス語の単語を目にします。

 Courregesといロゴの入ったティーポットを何気なく見ていました。

 クレージュと読むのか…。gの後にはeですがジュという発音です。子音の後にeがくればuの発音です。そして最後の子音のsはなにも発音しないのですね。

 定冠詞のleはルという発音でした。lesはレという発音でした。esで終わる時はレでも、gesはジュなんですね。覚えておきましょう。

 こんな程度のフランス語の勉強でいいのかと思いながらもエントリしています。

 さて、そのCourregesというブランドは1961年、アンドレ・クレージュが自身の名を冠したブランドを設立したそうです。

 
【クレージュについて】

アンドレ・クレージュ(Andre Courreges)は1923年、南フランスのナヴァール地方の中心都市ポーの町で地主の息子として生まれる。当初は土木建築学を学ぶが兵役についたことをきっかけに飛行学校で学び、44年空軍パイロットとして兵役に従事。徐々にファッションに興味を持ち出し、第2次世界大戦後にパリに出てファッションを学ぶことを決意。

1946年、パリ高等服飾産業学院に入学し、47年にジャンヌ・ラフォーリのメゾンに入りデザインの基礎を学ぶ。51年、バレンシアガのメゾンに入り、衣裳構築の美学と技術を学ぶ。61年にバレンシアガのメゾンで出会い、後に妻となるコクリーヌ・バリエールと共に独立を果たす。

61年、パリのクレベール通りにサロンを開設して独立。初コレクションのデザインは造形的で、ミニを基調とした明るいイメージで、かつ動きやすい機能性を持たせたものであった。これが 大当りとなって一躍有名になったが、最初の4シーズンはバレンシアガの影響を強受けたものであった。それ以後はソフトで軽やかな傾向が強まる。

64年A/W、「パンタロンルック」を発表、イヴニングドレスとしてパンタロンを提案し、スポーティで機能的な傾向を強調した。「パンタロンルック」は63年にも提案していたが本格的に話題になったのはこの年。65年に「ミニ・ルック」とよばれるミニ・スカートを発表。このミニ・ルックは、それまでオート・クチュールでは表現されず最も醜い身体部分とされてきた膝頭を解放した。これは爆発的なブームをよんだ。(詳細は60年代ファッション)

65年のミニスカートの爆発的なブームに伴い、粗悪なコピーが氾濫。これに失望したクレージュは3シーズンにわたる活動を休止した。


 なるほど、1944年といえば第二次世界大戦でしたね。そしてパイロットとして兵役についていたのですね。
 そして、ミニ・スカート、パンタロンなどの発表をしてブームを呼んだものの、粗悪品の氾濫で失望したのでしょう。活動を中止したのは残念なことです。

 時代は変わり、今ではユニセックスなファッションが多く、歳を取りつつある私の年代でも、普段はズボンというかパンツルックが多くなりました。ある男性が、「女性がスカートをはかなくなったのは、何だか味気ないね」というようなことを言っていましたが、なるほど言われてみるとファッションのセンスは近年がた落ちのような気がします。

 ファッション性が高くないといけなとか、女性らしさを演出しないといけないとか、そんなことばかりを毎日の生活では言っていられませんが、それでもたまのおしゃれという点では何か工夫が必要ですね。

 そういえば、ご近所さんとPC研究会を開いていますが、着物が好きなんでしょうね、さらりと着物でパソコンを勉強に来る人がいます。その方は週末はご主人とよくゴルフにも行くんですけど。

 個人の好みや個性を引き出そうとするには、質の良いものを知り、さらに個人的な美の意識というものが大事なのでしょう。そうすると、今では何でもある時代ですから、選択するセンスと意思ということになってきそうです。
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# by arrive_at | 2009-10-06 11:09  

フランスへ行く人のためのフランス語講座

 まずはフランス語からかな。

 フランスへ行く人のためのフランス語講座 より抜粋

まず、一番使うのが、「ありがとう」という言葉ですよね。お店で、ホテルで、街中で、何かされたらいつでも使います。そういうとき、"Merci!"(メルスィ)と言ってみましょう。これだけで、気持ちが通じ合えますよ。

次にあいさつ。「おはよう」「こんにちは」は"Bon jour"(ボンジュール)、 「こんばんは」は"Bon soir"(ボンソワール)といいます。お店に入ったら、一言あいさつしてみましょう。

では、数字に言ってみましょう。とりあえず、一から五まで。un(アン),deux(ドゥー),trois(トロア),quatre(カトル),cinq(サンク),
何か物を頼むときは、指をさして、例えば、「2つください。」というときは、"Deux,s'il vous plait"(ドゥ、スィルブプレ)といえばOK.

「はい」は"Oui"(ウイ),「いいえ」は"Non"(ノン)です。


 発音など全然知らないのですよね。なんだか口をつきだしてもごもご言えばいいんだろうと想像していますが。

 ムッシューなんか難しそうですもんね。ムスゥーみたいな感じかな?
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# by arrive_at | 2009-10-03 11:01 | パリに行こう  

ブログタイトルを変えました!!

 1年に1回ずつの更新でしたので、ブログタイトルを変えてみました。

 というのも、このところ「パリに行きたい!!」と思っているのですが、なかなかタイミングが合わずに断念すること2回です。

 夏休みはロンドンに滞在してユーロスターでパリに行くという企画も没になり、また懲りずに絵の友達とパリに滞在して毎日ルーブル美術館に通うという企画もダメになり、完全にしょげています。

 その最大の理由は新型インフルエンザの大流行ということで、世界的に見てもパンデミック状態のフェーズ6が解除されないからです。

 そんなもの無視して行けばいいじゃないかということですが、ただいまわが家では国外への旅を自粛するという方向です。仕事に影響したりするといけないからね。

 ということで、本当にパリに行ける日まで、エントリしながら楽しみにしたいと思います。




 ところで、テンプレートの画像はそのままですが、いつ替えたのか覚えていませんがフランスのものでした。たぶんポン・ヌフとかセーヌ川にかかる橋ではないでしょうかね。まだ、パリには行っていないのでさっぱりわかりませんが。
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# by arrive_at | 2009-10-03 10:05 | パリに行こう  

ファン・ジニ

 久し振りですね。10か月ぶりでしょうか。

 今日は初めて見たドラマですが、「ファン・ジニ」が最終回でした。

 はじめて見て、結末を知るというのもすごいものですが、何が何だかわかりませんでした。



 さて、ぺ・ヨンジュンの「大王四神記」もノーカット版でこれから放送があるそうです。今はNHK総合で放送されているのでしょうけど、これも見ていませんでした。


 そういえば、韓国ドラマではないけど、「アグリー・ベティー2」が30日から始まるそうです。私的には「気分はぐるぐる」と同じぐらいばかばかしいドラマなのですが、人間のそういった行動というかかっこ悪いところなどを拡大して見せてくれるというのは、けっこうはまります。



 いや~、秋の夜長はやっぱりドラマですね。

 
 ちょっと淀川長治氏みたいですが、いや、水野晴郎氏のようですが、ぼちぼちといきましょう。



 そうだ、デザインでも変えよう~。
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# by arrive_at | 2008-09-21 22:10 | ドラマあれこれ  

昔日のローマ #13

 紀元前753年以来244年間も続いたローマ王制時代は終わり、その間に現れた七人の王についても書き終わりましたが、それでも、このメモの元になる「ローマ人の物語Ⅰ」は第1巻にして、まだ半分もいっていません。

 そんな大掛かりな時代メモを書き出したのが間違いかもしれませんが、とにかく、端折ってでも進めていきたいと思います。


 紀元前509年、王制打倒を果たしたのは、ルキウス・ユニウス・ブルータスでした。第1回目の執政官はブルータスとコラティスを選出し、今後は王位は誰も就かず、1年ごとに市民集会で執政官を選ぶというきまりにしました。

 ブルータスはあだ名で、母方の叔父は王タルクィニウスで、姓もブルータスではなかったのです。先王の時代を「阿呆」(ブルータス)と軽蔑されながら耐えていたのが、先見と実行の能力を持ち、改革の主導者となりました。

 元老院の強化策として、ロムルスの時代は100人、五代王タルクィニスの時代は200人、そして、ブルータスの時代は300人に増やしました。

 その元老院での演説のはじめの呼び掛けの言葉は、「パートレス・コンスクリプティ」でした。その訳は「父たちよ、新たに加わった者たちよ」ということで、旧勢力と新参者を表わしています。

 そして、王制から共和政への移行はなかなかたいへんで、変革があり、不満が出たり、いろいろなことが起こりました。


【ブルータス】
 
 ローマ共和政により、元老院に親が死ぬまで入れない若者反逆を企てました。そして、追放されたタルクィニスを呼び戻し、王政復古を企てたのですが密告されます。逮捕された中には、執政官のブルータスの息子二人もいました。

 国家反逆罪の罪人として、ブルータスは家長として息子二人を処刑しました。ブルータスはその処刑が終わるまで同席したのですが、その潔さへの賞賛とは反対に、もう一人の執政官コラティスは疑いがあると市民に見られたのか、執政官を辞退し、家族ともども隣国に亡命しました。自主的に亡命したものには罪は問わないという決まりがありました。 

 その後の執政官にはヴァレリウスが就きました。

 七代目の先王タルクィニスは王位復帰をあきらめず、諸都市に応援を求め、戦いがはじまります。

 タルクィニスの長男アルンテスとブルータスが一騎打ちをするのですが、お互いにいとこ同士です。しかし、アルンテスには追放された怒りがあり、ブルータスには公人と私人の狭間を埋め切れなかった者の絶望がありました。
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# by arrive_at | 2007-11-02 21:24 | イタリア  

昔日のローマ #12 七代目 タルクィニス

 第六代王セルヴィウスは紀元前579年から前534年まででした。このセルヴィウスの統治は素晴らしく、市民にはたいへん助かったのですが、その次の代はもうムチャクチャというか、この辺が歴史の面白いところですね。



【最後の王「尊大なタルクィニス」】

 五代王タルクィニスの娘は養子のセルヴィウスと結婚したのですが、その間に生まれた二人の娘がいます。一人は勝ち気で、一人はおとなしい性格でした。

 五代王タルクィニスにも実子の二人の息子がいました。一人は気の強い野心家で、一人は穏健な性格だったそうです。

 先王セルヴィウスは性格の違うもの同士を結婚させましたが、性格の中和どころか気の強いものが優しいものを虐げるという、とんでもない結婚だったようです。

 気の強い王女トゥーリアと義弟のタルクィニウスはお互いの結婚相手がなぜか急死し、たぶん、とんでもないことに野心の為に殺したのかもしれませんが、そして、この野心家同士が結婚しました。

 まだ先王セルヴィウスが生きていた頃だったのですが、さすがに先王も気落ちしていたようです。

 気の強い王女トゥーリアにたきつけられた野心家のタルクィニウスは、ローマに住むエトルリア人を味方につけ、王セルヴィウスを元老院入口前の階段から投げ落としました。屈辱にさいなまれながら王セルヴィウスは宮殿に戻ると、タルクィニウスの刺客が剣を刺し、最後には父親のタルクィニウスに娘トゥーリアの乗った馬車が襲いかかりました。本当に親を殺したのです。

 タルクィニウスは王になり、トゥーリアは王妃になりました。すげー!

 もっとすごいのですが、先王派の元老院議員を殺し、市民集会や元老院の選出無しに王についたのです。

 さらにこの後に続くスキャンダルは有名になり、今年(2007年)の夏、東京都美術館で開催されたパルマ展の中にもこの話を題材にした「ルクレツィアの死」を描いた絵は一枚ではありませんでした。

《スキャンダル》

 王の息子セクトゥスは、親族コラヌスの妻ルクレツィアに横恋慕し、襲う。
 その夜のうちにルクレツィアはローマの父と、アルディアの戦場の夫の下に変事を知らせ、信頼できる者を連れてすぐ帰るようにと召使を出す。

 父ルクレティウスはヴァレリウスを、夫コラティスはユニウス・ブルータスを連れて帰る。

 四人の前で妻ルクレツィアは復讐を誓わせて短剣で自害する。

 ブルータスは遺体をフォロ・ロマーノに運び、蛮行の犠牲者を出してはならないと演説をする。
そして、王と王の一家全員をローマから追放することを市民に提案した。

 ローマ人の不満は爆発し、ブルータスの市民兵結集の呼びかけに応じた。

 王タルクィニウスは戦場のアルディアからローマに帰るが、ローマの城門は閉ざされていた。

 王は自分に従う兵とエトルリアのカエレを頼って去った。王妃トゥーリアはローマを逃げ出す。

 三人息子のうち二人は亡命し、父に同行する。

 犯人の息子は別の町に逃げ出したが、以前に侮辱した者の手で殺された。



 25年間の治世もこのようにして終わりました。


 このローマの建国以来の7人の王の時代も最後となり、244年間のローマ王制時代が終わったといわれます。

 この次は、ローマ共和政時代に入っていきます。


 
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# by arrive_at | 2007-11-02 18:57 | イタリア  

昔日のローマ #11 セルヴィウス・トゥリウス

 第五代王タルクィニスは紀元前615年から579年でした。その跡を継ぐセルヴィウス・トゥリウスは先王の養子でした。そして実子を王にはせず、この優秀なセルヴィウスが高い評価を受けていた先王の後を継いだのは、ローマにとっても良かったのではないのでしょうか。

 血筋よりも能力を評価したというのは政治ではたいへん重要なことですね。

【六代目の王セルヴィウス・トゥリウス】

 先王タルクィニスの後を継ぎ、「セルヴィウスの城壁」といわれるローマ全体を守る城壁が作られました。7つの丘を囲み、外からの攻撃に耐えられるということです。

 また、アヴェンティーノの丘に狩りの女神ディアナの神殿を建て、その立派さに他者もローマに入り詣でることができました。

 軍制の改革としては、市民は軍役を努めることで税金を払うということの代わりにしました。そして、投票権を与えます。

 干拓地だったところに、軍神マルスから取った「マルスの広場」(カンプス・マルティウス)を作り、軍団の集結地と市民の投票場としました。

 軍制=税制=選挙制

 戦力を知る為に人口調査をしました。ローマでは100人隊という最小単位で一票とし、小選挙区制としました。ギリシアのアテネは一人一票だったのです。

 また、16歳未満の未成年男子、軍務を終えた60歳以上の老齢者、女、奴隷、子供しか財産がない者はプロレターリという無産者としました。

 セルヴィウスは戦法を確立しました。ローマ軍は前衛・本隊・後衛に分かれ、前衛は敵とぶつかって戦線を乱し、本営は主力の重装歩兵は勝負をし、いざとなれば3番手の後衛が駆けつけるという戦法です。騎兵は機動部隊として活躍しました。

 そうして、ローマ軍団の合理的な戦法によって周辺の部族にも勝ち、44年間の治世も終わりました。
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# by arrive_at | 2007-11-02 18:10 | イタリア  

昔日のローマ #10 タルクィニス・プリスコ

 第四代王マルティウス・アンスコは紀元前641年から前」616年まで治めていました。その後を継いだのが良くも悪くもタルクィニスで、その後の家系の悲劇も含めると、歴史としては面白いものがあります。というのは、王とはいえ人間ですから、いい人もいれば悪い人もいるということでしょうか。

 自分のことを振り返ってみても、同じ血筋なのにこうも考え方や性格が違う者がいるのかと、悲しさと共に笑いさえこみ上げるのです。

【五代目の王タルクィニス・プリスコ】

 タルクィニスは裕福なエトルリア人であったようで、たくさんの家財道具と使用人たちを引き連れて、ローマにやってきました。

 タルクィニスの父はギリシアのコリントからエトルリアに亡命し、母はエトルリアの位の高い家の出身です。

 両親から相当な財産を受け継いだタルクィニスは、王アンスコの遺言執行人に指名されます。そして、その後王に自ら立候補します。

 ローマの市民の生活水準も向上し、町も大規模な開発がなされます。

 丘と丘の間の湿地帯には地下水道、干拓事業で平地になり市場になります。地下水道をふさぐ石の舗装がなされたり、公共の建造物もできます。

 フォールーム・ロマーノム、フォロ・ロマーノが誕生します。 大競技場(チルクス・マクシムス)、 カピトリーノの丘に神殿の建設、オスティアなどテヴェレ川の河口に港を持ち、民族別の丘も交流がなされました。開発事業はローマ軍兵士の仕事でした。

 干拓、地下水道、道路舗装、神殿などの技術はエトルリア人の技士から伝わったようです。農耕民族から技術者へと変わり、土木事業の資材はエトルリアから運ばれたようです。

 王タルクィニスは奴隷の子を養子にし、王タルクィニスが暗殺されるや、妻は実子よりもこの子供セルヴィスを娘の夫にし、王に即位させました。

 利発で勇気ある子だと、タルクィニスには先見の明がありました。そして、37年間の治世でした。
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# by arrive_at | 2007-11-02 17:44 | イタリア